熊野古道(中辺路)
熊野参詣道中辺路
行動記録
行程図
■10月7日(金)
滝尻民宿(8:00)--滝尻王子(8:05)--不寝王子(8:28)--剣ノ山経塚跡(8:53)--針地蔵尊(9:46)--高原熊野神社(10:15)--高原休憩所(10:17,10:35)--大門王子(11:17)--十丈峠(11:40,12:15)--十丈王子(12:15)--上多和茶屋跡(12:45)--大坂本王子(13:33)--牛馬童子(13:50,14:00)--端折峠(14:17)--近露王子(14:48)--民宿ちかつゆ(15:10)
■10月8日(土)
民宿ちかつゆ(8:10)--野長瀬一族の墓(8:25)--楠山坂登り口(8:42)--比曽原王子(9:05)--継桜王子(9:20,9:30)--野中の清水(9:40)--秀衡桜(9:45)--安倍晴明腰掛の石(9:53)--中川王子(9:59)--小広王子跡(10:26)--熊瀬川王子(10:38,10:53)--小広峠バス停(11:05)
小広峠バス停(11:29)===熊野本宮大社(11:50)
熊野本宮大社(14:26)===湯の峰温泉(14:40)
湯の峰温泉(15:00)--湯の峰王子(15:05)--鼻欠地蔵(15:30)--湯の峰王子(15:50)--湯の峰温泉(16:00)
天気図
■10/7(金) 日の出 5:10, 日の入り 18:43 雨のち曇り 31.0℃/16.1℃ 1.7m/s 北北東 0.0mm
■10/8(土) 日の出 5:11, 日の入り 18:34 曇り 25.4℃/18.4℃ 1.0m/s 南 4.0mm
天気図、衛星画像 日本気象協会より転載、気象データ:気象庁@長野 伊那
アプローチメモ
行動記録
百名山もなんとか制覇し、年齢的にきつい山登りをする気力もなくなってきた今日この頃であるが、熊野古道がにわかに頭をよぎっている。古道という響きに魅力を感じるとともに、歩きということで体力的に適しているのではないか、歴史を訪ねてゆっくり歩くのも一興ではないか。なにしろ世界遺産である。
このような思いをAさんに告げると彼もすぐ反応し、一緒に行きましょうとの快い返事。小生ちょうど仕事も3月で終了、4月からはサンデー毎日ということで最初5月頃に行くことにしていた。
しかし、なんと4月から元勤務していた会社からアルバイトを頼まれ、また3月で辞めた前の職場からも7月からアルバイトを頼まれ、さらにAさんもあらたに就職した職場で春期はとても忙しいということで、とてものんびり古道歩きを楽しむ状況ではなくなった。とにかく秋まで延期することとした。
そのうち私の方は9月でアルバイトの一つが終了し、Aさんからも10月は少々暇になるということで、10月実施ということにした。
さて熊野古道、世界遺産としてつとに有名ではあるが、いつもの山行と違ってヤマレコなどの行動記録が見つからず、また和歌山県の山奥ということは承知しているが、地理的にどの辺りなのか、コースの取り方、またどこに宿泊したらよいやらぜんぜん分からない。
幸い職場で熊野古道に行ってきた方がいたので宿など教えてもらったが、聞き慣れない地名でなかなかイメージが掴めい。
さらにネット検索や図書館から借りてきたガイドブックを調べていくうちにようやく熊野古道の全体が分かってきた次第である。
そこで熊野古道で一番人気のある中辺路を辿ることで計画を練った。和歌山県の紀伊田辺から熊野本宮大社までのコースであるが、紀伊田辺からはさすが長距離となるので、途中の滝尻という場所から出発して熊野本宮大社を目指すことにした。ようやく作成した計画表を伊那に住んでいる山好きな会社の先輩にたまたま伝えたところ、急遽参加したいとの表明があり、結局3名で古道歩きすることになった。
計画表はできたが、世界遺産である熊野古道については事前に少々お勉強し予備知識を仕入れておいた方が良い。山登りと違って山頂から素晴らしい景色はバカでも楽しめるが、古道歩きはそういう訳にはいかない。
道中見つけた標識で次の説明があったので、ここで紹介しておく。
熊野路は、浄土へのも道でもあった、熊野の神々にあこがれた人々が、たぎる信仰を胸に山を越え、海ぞいをよぎって行った。 これは皇族から庶民まで、中世から近代にかけてはてしなく続いた「蟻の熊野詣」であった。 この熊野路の名を高めたものは、平安の中頃から鎌倉後半にかけての熊野御幸だった。 延喜7年宇多法皇から弘安4年亀山上皇まで実に374年間にわたり100回以上の御幸であったといわれている。 早朝京都を出発まず淀川を船で大阪府下に下る。それから陸路南に向い田辺、中辺路をたどって熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の順に参るのが順路である。 往復の日数は20日から1ヵ月、一行の人数は最大で812人、最小の時は49人、平均300人前後にのぼったといわれている。 上皇、法皇は白ずくめの服装に杖という山伏に近い姿、道筋の各所に「熊野九十九王子社」と総称される休憩所がもうけられ、そのうち中辺路町内には滝尻王子より道湯川王子まで13王子を数える。
要するに、平安時代とか昔の人は病気や飢餓などの苦しみの中で安寧を求めて山深い僻地にある熊野本宮大社を目指したのであろう。 我々も日頃の行いを反省し、古道の傍らにひそかに佇む石碑や祠を拝みながら巡礼の旅に出よう。
【10/6(木)曇り、微風】
東京から熊野古道のある和歌山県の山奥までアプローチは飛行機、電車、それに夜行バスなどいろいろあるが、今回はAさんも一緒ということで車で行くこととした。東京からの長距離ドライブとなるが途中で運転を交代してもらえるということも助かる。
朝6時半にAさんと落ち合い、横浜青葉ICから東名高速に入る。途中SAで運転を交代しながら第2東名、伊勢湾岸道路を経て尾鷲北ICで有料区間が終了、その先も熊野大泊ICまで高速道路は続き、
しばらくしてから高速道路を下りて国道311号線に入り熊野本宮大社まで山中の道となる。幸い道は広くスムーズに運転できた。以前大台ヶ原に行った時や大峯山八経ヶ岳の登山口に向かった時など、和歌山県の山奥は道が狭くて険しい印象があったが、まったくそのような道ではなく、バスやダンプなども十分通れる片道1車線の道路が熊野本宮大社まで続いていた。よって予定どおり3時過ぎには最終宿泊地である湯の峰温泉に到着した。ここで宿の人に3日後に宿泊するまで車を駐車させてもらうことにした。
ここから出発地点の滝尻までバスとなる。湯の峰温泉の宿である「伊せや」の前にバス停があり、そこから紀伊田辺行きのバスに乗り込む。乗客は我々の他にひとりかふたり。バスは途中近露で休憩したのち滝尻に予定通り4時半に到着した。宿はバス停のすぐ近くにあるが、その傍に熊野古道館があったのでちょっと中を覗いてみた。
熊野古道を中心に中辺路の観光案内所といったところで、正面に当時の旅姿の実物大の人形のほか熊野古道のコースや歴史紹介、地域の物産なども販売していた。受付には女性が一人であったが、見学しているうちに地域に住むおばさんであろうか2人訪ねてきて3人でおしゃべりをしていた。
そこを出て道路を渡ったところに今宵の宿、民宿「古道の杜あんちゃん」があった。お店を兼ねた民宿で、さっそく受付をして案内された部屋は道路に面した6畳ほどの和室であった。そこでぶらぶら時間潰しをしているとやがてN先輩がやってきた。
自宅で取れた梨、それに地元で買ってきたというシャインマスカット風のぶどうを大きなタッパウェアに入れてたくさん持ってきた。夕食前にそれらを食べたがとても平らげることは出来ず、一部は宿の主人にお裾分けした。風呂で簡単にシャワーを浴びて、お店の中に据えられたテーブルで早い夕食を食べた。
【10/7(金)曇りのち雨、微風】
夜中に雨が降っていたが、朝起きてみると雨は止んでいた。ただ空模様があまり芳しくない。
店のテーブルで朝食を食べていると、ここで宿泊しているのか若いアメリカ人の女性も朝食を食べにやってきた。
若いアメリカ人達はこのような純和式の民宿で不満を感じていないであろうかとちょっと気になった。というのも昨晩風呂に入った時、狭い湯舟であったがシャワーもなぜか貧弱、それになんと浴室の片隅には大きなクモがいたのであるが。。。
さて朝食を済ませ、身支度しているとアメリカ人の女性も早々身支度して、我々より先に出て行った。
宿のおばちゃんからは古道歩きは山歩きだよとアドバイス、我々はもともと山登りの仲間であると返事したが、確かに昨日バスで滝尻に来るとき、バスの窓からは古道らしき道は見えず奥深い山の稜線が見えるだけで、山また山で平坦な道はなさそうな感じであった。
宿のおばちゃんに世界遺産記念石碑の前で記念写真を撮ってもらい、いざ滝尻王子から熊野古道に入る。
まずは滝尻王子神社に旅路の無事を祈願して神社の裏手の道を行く。いきなり普通の山道で勾配もある。 登りだしてすぐに乳岩という標識と小さな地蔵に出くわした。乳岩については、次の伝説がある。
■乳岩
むかし奥州の豪族藤原秀衡が夫人同伴で熊野参りに来た時、ここで夫人が急に産気づき、この岩屋で出産したという伝説がある。
夫妻は赤子をここに残して熊野に向かったが、その子は、岩からしたたり落ちる乳を飲み、狼に守られて無事だったので、奥州へ連れ帰ったとの伝えられている。
その子が成長して秀衡の三男の和泉三郎忠平になったという話まである。
果たしてこんな山奥で出産できたのか、はたまた狼が育てたとか、とても現代では通用しない話であるがそこは言い伝えの世界で、語りづがれるうちに話がオーバーになっていったのであろう。その後ろには胎内くぐりとなっているが、とても狭くてくぐれない。
次に不寝王子と呼ばれる熊野古道らしい大きな石碑が出てきた。 その脇に建てられている説明によると次のように記されている。
■不寝王子
中世の記録には、この王子の名は登場しません。
王子の名が載せられているのでは、江戸時代、元禄年間頃に著された「紀南郷導記」です。
これには、ネジあるいはネズ王子と呼ばれる小社の跡があると記され、「不寝」の文字があてられています。
この頃すでに跡地となっていたようで、またネズの語源も明らかではありません。
江戸時代後期の「紀伊続風土記」では、「不寝王子廃跡」となっており、今は滝尻王子社に合祀されていると記されています。
さらに剣山への登りが続く。ここまではまったくの登山と変わりない。頂上すぎたあたりに展望台という所に出た。 そこまで樹林帯の中であったが、やっと回りの風景が目に入った。 雨上がりのせいか山には雲がたたずんでいる。その麓には集落が見える。 ここで昨晩N先輩が持ってきたシャインマスカット風のぶどうを平らげる。 柔らかいぶどうなのでザックの中に入れるわけにはいかず、ここまでビニール袋を手で下げたり、ザックに括りつけたりして持ってきた。 N先輩によれば、買ったときにはすでに熟していたので、もう食べないと腐ってしまうということで無理矢理全部平らげる。まあジュース代わりでうまかったが。 それに私としてはビニール袋がなくなった分、身軽になった。 ここから念のためカッパを着込み、ザックにはザックカバーを取り付ける。
展望台を出て歩き出すと私の携帯電話がなった。出てみると滝尻の民宿のおばちゃん、なんか忘れ物があるよとのこと。
ベルトと剃刀とのことであるが、ベルトはN先輩のものであった。最終日にまた車で立ち寄るのでそのまま保管しておいてと頼んでおいた。
展望台からは道は平坦になり、そのうち側に道路が走っている。湿気のあるところなのか道端にキノコの群落があった。山に詳しいN先輩によれば、このように群れになっているキノコは食べられるものが多いとのことである。が、間違うと大変なので見るだけにしておいた。山でこのようにたくさん自生しているキノコをみるのは初めてであった。
しばらくして樹林帯を抜けぼつぼつ民家が現れ集落に入った。 やがて広場が出てきて、その先には「霧の里無料休憩所」と称される小さな建物があり、トイレなども併設されている。高原というところで、広場から山里の風景が広がっている。滝尻から2時間余り、休憩タイムとする。
■霧の熊野行動 高原
標高300mあまりのこの高原は、時おり、霧が立ちこめて雲海のようになり、その光景は神秘的です。
ここは、平安後期から鎌倉初期へかけて熊野参詣の盛期には、
拠点である滝尻から熊野へ向かう一つの通過点として知られ、後鳥羽上皇に随行してきた源通方は、
高原や峰より出づる月かげは
千歳の松を照らすなりけり
と詠んでいます。
熊野参詣道が潮見峠越えに改まってからは、この地は宿場となり、
江戸時代には伝馬所が設けられ、熊野参詣者や西国巡礼者の泊る宿屋が並んでいました。
段々畑の向こうに延々と続く果無山脈が雲の中に浮かんでいる。
雨上がりのせいか霧が立ち込めた風景が却って良かったのかもしれない。
この休憩所からすぐ道に入ったところに高原熊野神社があった。
この神社は熊野参詣道中辺路における最古の神社建築で、
高原熊野神社自体は小さな神社であるが、境内を囲う大きな楠には目を見張る。
樹齢1000年以上と推定されるとある。
熊野神社からはまた樹林帯の山道に入る。途中林の中に小さな池があった。それを過ぎてしばらく歩くと案内板があり、その右手に進むと小さな祠の大門王子があった。
■大門王子跡
この王子は、中世の記録には登場しません。
王子の名の由来は、この付近に熊野本宮の大鳥居があったことによるものと考えられます。
鳥居の付近に王子社が祀られ、それにちなんで大門王子と呼ばれたのでしょう。
天仁2年(1109)に熊野に参詣した藤原宗忠は、この付近の水飲の仮屋に宿泊しており、
建仁元年(1201)に参詣した藤原定家も、この付近の山中で宿泊しています。
江戸時代になって、享保7年(1772)の「熊野道中記」に、「社なし」としてこの王子の名が見え、
紀州藩は享保8年(1723)に縁泥片岩の石碑を建てました。
この王子碑と並んで、鎌倉時代後期のものとされる石造の笠塔婆の塔身が立っています。
以前には松の大木がありましてが枯れてしまい、その後朱塗りの社殿が建てられて、この王子跡付近の様相は一変しました。
大門王子跡を過ぎさらに若干下り気味の山道を進んで行くと峠なのかベンチがあるやや開けたところに出た。十丈峠である。 時間もちょうどお昼なので民宿で受け取った弁当を食べることにする。とすると、先方の山道に10名ほどの外国人のパーティがたむろしていた。おそらく十丈王子をみていたのであろう。
お昼ご飯も済ませさらに山道を進むと今度は雨が本降りに、それもだんだん強くなってきた。カッパは上着だけ着ていたが、下のカッパは履いていなかったので登山ズボンまで濡れてきて、さらに靴の中にまで水が侵入してきた。途中外国人ツア―ググループに追いついたが彼らもそれぞれカッパを着ていた。それも登山用の立派なカッパではなくポンチョみたいなもので済ましている人もいて、わざわざ海外から来てこの雨じゃつらいだろうなという気がした。ただ体格のデカい外国人、そんなに気にしていない様子であった。我がパーティにも百均のカッパを着ている輩もいたが。。。
本格的な雨の中、道はぬかるんで滑りそうになりながら次の王子を目指して進む。
一旦林道に出てしばらく山道を登ったところでやっと大坂本王子に辿り着いた。
なかなか趣のある石碑である。
由来看板の記述によると、この王子の社名は大阪(逢坂峠)の麓にあるところから付けられたらしいとのこと。
江戸時代には「大坂王子」「相坂王子」とも記されていたとか、寛政10年(1798年)ごろには小社もあったそうだが、今では一部欠落した石碑があるのみとある。
そこを過ぎてさらに山道を進んだところ、熊野本宮大社と紀伊田辺を結ぶバスが通る幹線道路の311号線に出た。
道路を渡ったところに道の駅があり、休憩タイムとする。雨もやんでいた。ほどなくして例の外国人ツアー御一行もやってきた。
トイレを済ませ、本日の目的地である近露に向け最後の登りに取り掛かる。坂道を登り切ったところに牛馬童子像があった。他の王子と違って牛に乗った童子像と石仏が並んでいて、その後ろには石の祠、なかなか古びた感じが出ていて熊野古道にふさわしい雰囲気を醸し出していた。
「西口勇」氏著「くまの九十九王子をゆく」では、下記のように記述されている。
■くまの九十九王子をゆく
近露王子から1キロ足らずの箸折峠の幽玄の気の満ちる木立の中に、古い「宝篋印塔」があります。表面は摩滅して文字など見えませんが、鎌倉時代のものとみられ、県の指定文化財となっています。
「花山法皇」の埋経の上に建っていると伝承されています。
その近くに牛馬二頭の背にまたがった高さ50センチほどの僧服姿の石像があります、「牛馬童子」と呼ばれ、牛と馬に乗っておられるのは、牛頭、馬頭は「阿弥陀仏」の両脇侍である「観音菩薩」「勢至菩薩」の化身だからです。
「花山法皇」を「阿弥陀仏」になぞらえての立像かとおもわれます。
峠から下る途中で近露の盆地を一望できる見晴らし台に出た。いよいよ本日のゴールが近づいてきた。 見晴らし台からところどころ雲がたなびく山里の風景が広がっていた。 観光ツアーの一行なのかガイドを伴って大勢の観光客が登ってきたので、我々はそこを立ち去り、雨で濡れた石畳を滑らないように慎重に下り近露の集落に到着した。
ここ近露は山又山の中辺路にあって、このあたりは田畑も開けていて昔から交通の要所とのこと。 近露王子は九十九王子の中でも最も早く現れた王子の一つで、五体王子に次ぐ王子として重要視されていたようである。
■五体王子
王子社の中でも海南市の藤代王子社、印南町の切部(切目)王子社、上富田町の稲葉根王子社、田辺市の滝尻王子社、発心門王子社は、五躰王子社として特に格式が高いといわれている。
近露では先輩のNさんは別の民宿を予約しており、明日落ち合う時刻を確認してそれぞれの宿に向かった。
民宿に向かう途中、赤いジャンパーを着たおっさんとすれ違い、挨拶すると昨日湯の峰温泉で出会ったおっさんであった。
向こうも覚えていてしばらく話すると彼はもともと東京の人でこのあたりを気に入り、この近くに古民家を買ったそうである。都会と比べて安いとか、ただ下水施設に費用がかかったとか、そのまま話を続けていると長くなりそうだったので早々に切り上げ民宿に入った。
民宿でチェックインすると別棟の一部屋を割り当てられ、8畳ほどの畳間には濡れたザックや衣服を置けるようにビニールシートが敷かれていた。また温泉が別棟にあり、さっそく着替えを持って風呂場に行って疲れを癒した。
この民宿は建屋が新しく綺麗で風呂場も広くて気持ち良い。例の外国人ツアー客もここに宿泊するためやってきた。温泉で湯舟に入っているとその一行のひとりが風呂場に入ってきた。すでにAさんは風呂場から上がっていて湯舟で二人きりになったので、勇気を出して英語で声をかけてみた。だが声が小さかったのか発音がまずかったのか返事がなかったので、私も風呂からあがった。
夕食は若い主人の手作りなのかいろいろな食材を使ったおいしい料理であった。となりの部屋では例の外国人ツアー客がパーティなのか賑やかな話し声が漏れてきた。
さて滝尻から近露まで来たが、明日の行程について宿の主人と話していると熊野本宮大社までかなり距離があり時間がかかるとのアドバイス。我々湯の峰温泉行きの最終バス(16:40発)に乗らないといけないというと熊野本宮にはタクシーもないよとのことで、果たしてバスに間に合うか少々不安になる。そこで、ガイドブックやらバス時刻表などを照らし合わせて検討するに、古道歩きは小広峠バス停で中断した方が無難という考えが頭によぎってきた。
とにかく明日の行動をみて判断することとし就寝。
【10/8(土)曇りのち晴れ、微風】
朝7時に食事を済ませ、8時にNさんとの待ち合わせ場所に行く。空は曇っているものの天気予報では回復に向かうということでカッパはザックの奥にしまった。ただ靴と靴下は昨日の雨で少々濡れたままである。
しばらくアスファルトの道路を登っていくと近露集落の外れに野長瀬一族の墓があった。
野長瀬一族は、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王(もりよししんのう)に味方した近露の豪族である。
昨日の山道と違って村の道を辿っていく。比曽原王子を通り過ぎて左手に継桜王子の大きな鳥居があり、そこを登っていくと小さな神社があった。辺りは立派な杉林である。ひととおり見学して神社の近くに藁ぶきの茶店があった。 店のおばさんが道の落ち葉を掃いており、ほどなくしてカメラを持ったおじさんやら地元の人なのかバイクに乗ってきたおっさんらが来て話する。するとおじさんから継桜王子は鳥居に側にひっそりと立っていると聞かされ、さっそく引き返して確認する。確かに鳥居を入って階段をのぼったところは継桜神社であった。
古びた石碑が杉林の中にひっそりと立っていて、それに木漏れ日が指していて古道の雰囲気を醸し出していた。 またおじさんからこの道の下に野中の清水があるよと教えてもらい、道路から細い道を下ったところに欄干で区切られた野中の清水があった。苔むした雰囲気の水場で、水を口に含んでみたが冷たいということもなくおいしいというほどでもない。
茶屋からは熊野古道のメインのひとつなのか道は整備されていた。すぐに秀衡桜の標識があり、句碑があった。 石碑の前は桜ではなく紅葉の木であったが、まだ紅葉していない。
■秀衡桜
奥州の藤原秀衡夫妻が熊野参りをした際、滝尻の岩屋で出産し、その子を残してここ野中まで来て、杖にしていた桜の木を地につきさし、子の無事を願ったとされ、その木が成長したのが秀衡桜だといわれている。
明治の中頃までは継桜王子の社前にあり、古くから名木として知られていた。
天仁2年(1109)の藤原宗忠の日記(中右記)に、道の左辺にあるツギザクラの樹は、本はヒノキで誠に希なものだと記されていて、その桜が秀衡伝説に結びついたものとみられる。
滝尻の乳岩の伝説と結びつく。桜の木は社殿の前にあったとあるが、この石碑はずいぶん離れた場所に建てたものだ。
しばらく集落の道を進むと途中安倍晴明腰掛かけ石の標識があり、なんの石碑もないが標識にはこう記載されている。
■安倍晴明腰掛かけ石
ここにある上部の平たい石は、安倍晴明の腰かけ石といわれるものである。
平安時代の陰陽道の大家安倍晴明が熊野をめぐる途中でこの石に腰をおろして休んでいた、その時、上方の山が急に崩れそうになったが、清明は得意の呪術によって、崩壊を未然に防いだと伝えられている。
とある。安倍晴明も熊野古道の巡礼の旅に来ていたのかと思うと同時に、清明が現代に生きておれば昨今の災害被害も食い止められるのかもしれない。 しばらくアスファルト道路を歩いていたが中川王子は脇に入ったところにあるので、気づかずに通り過ぎてしまった。 あたりは晴れてきて日差しも出てきた。しばらく舗装道路を歩いて道の傍らに小広王子の標識があり、道脇の階段を上るとなんの変哲もない石碑が立っていた。 昔このあたりは昼なお暗い山道で狼がたむろしていたとある。
小広王子を過ぎると道路の傍らから山道をショートカットして再び道路にでるとトイレがあり、そのまま突き進むと小広峠バス停に行く。その手前で沢に下りていく道をおり沢を渡って山の斜面を登ったところに熊瀬川王子が林の中に立っていた。
■熊瀬川王子跡
ここは、草鞋峠一名熊瀬坂の登り口にあたり、かって小祠の祀られていたところである。
鎌倉末期の「熊野縁起」に”熊瀬川王子”の名が出ていて、それがここであるとする説がある。
しかし、この王子名は他の古書には見えない。熊瀬川は、谷川の名であると同時に、
この付近一帯から小広峠へかけての地名であるから”熊背川王子”は小広王子をさすことも考えられぬことはない。
ここも風情のある石碑があり、写真を撮っていると若い女性の二人連れがやってきたので我々の写真を撮ってもらった。彼女達はこのまま熊野本宮大社まで行くという。我々は今宵の宿である湯の峰温泉行きバス発車時刻(16:40)までに本宮大社に辿り着けそうにもないので、ここで古道歩きは中断して小広峠バス停に向かった。
小広峠バス停でバスを待っていると外国人ツアー御一行もやってきた。我々と同じように熊野本宮大社で今日の行動が終わるのかと尋ねたら、本宮大社から12:00発の発心門王子行きのバスに乗って発心門王子から熊野本宮大社を目指すとのことであった。
本宮大社でバスを下りて、さっそく「民宿ちかつゆ」のご主人から教えてもらったすし屋で昼ごはんを食べにいった。こんな山中で新鮮な魚のお寿司、それに温かいうどんが食べられたことにちょっと感動した。
おいしいご飯を食べた後、熊野本宮大社に行く。熊野三大大社の一つでなかなか古い社殿である。 八咫烏のマークが目につく。
熊野本宮大社にお参りした後、日本一大きい鳥居が聳え立つ大斎原(熊野本宮大社旧社地)に行く。 ここはもともと熊野本宮大社があったところで、明治22年の熊野川の大洪水で流されてしまい、熊野本宮大社が今のところに移されたとのことである。 大きな鳥居をくぐって杉並木の進むと芝生で敷き詰められたところに石碑があった。 また案内板には流される前の大社の写真があったが、昔の社殿は現在の本宮大社の8倍の規模を誇っていたとのであったとのこと。 大斎原は熊野川、音無川、岩田川の合流点にあたる中州にあり、古代には鬱蒼とした照葉樹の森が茂っていたと記録されている。生命の源である水と、それを育む山や大地が交わる場所は、命が生まれる場であり生命エネルギーが高い場所。 ことに中州は水のエネルギーを直接受け止め、強いパワーを放つ場所である。パワースポットと呼ばれる所以である。
今宵の宿である湯の峰温泉行きバスの発時刻まで熊野本宮館の展示物などを見て過ごす。 20分ほどで湯の峰温泉に着き、さっそく駐車場に行って車に置いてあった着替えや荷物の整理をして宿にチェックインする。 あたりはまだ明るく時間もあるので、湯の峰温泉の裏手から本宮大社に至る熊野古道(大日越え)を鼻欠地蔵まで登る。
鼻欠地蔵を目指して坂道を登ってきたが、地蔵らしきものがなく左手に四角の石が建てられていたのが鼻欠地蔵であった。 どうもイメージが湧かない。
湯の峰温泉は日本一古い温泉ということで、世界遺産にもなっている。 その割にはひなびた温泉街でりっぱな温泉旅館があるわけもなく、民宿みたいな旅館が数件あるだけである。ただ小川から湯煙りが立ち上がっており、河原から92度の温泉が自噴しており、ちょっとした井戸で観光客が玉子をゆでている。 小川の片隅に掘っ立て小屋があり、ここが「つぼ湯」であり、誰でも入れる。ただし順番待ちの人がベンチで座っていた。またそれとは別に綺麗な公衆浴場もある。
さて熊野古道の予定コースは終了したが、N先輩はせっかくここまで来たのだから串本や那智勝浦などを見て帰ると言う。
確かにこのまま東京に帰るにはもったない、もう二度と来れないかもしれないし10日まで連休ということもありその計画に乗っかることとした。
Aさんはやはり仕事の関係があるので予定通り東京に帰るという。
そこで熊野三山の残りである熊野那須大社、熊野速玉神社を巡ることにして、明日の宿をスマホで検索し那智勝浦の民宿を予約した。
そう決めて宿の温泉に浸かる。うす暗い風呂場で湯の花が浮かんだ湯舟に浸かり疲れた身体に心地よい。風呂上がりのビールは最高であったが、夕食は仕出し弁当であった。その後、部屋にはテレビもなく旅の疲れのせいか早々床についてすぐ寝てしまった。
【10/9(日)曇りのち大雨】
あいかわらず空模様はあまり芳しくない。朝も仕出し弁当であった。
Aさんは最初はここからバスで新宮に出て帰るとしていたが、我々は車で紀伊田辺まで行くので、そこまで送って行くことにした。紀伊本線は大阪から紀伊田辺まで特急もたくさん出ており、新宮からだとやはり電車の乗り継ぎがあまり良くないようなので早く帰るなら紀伊田辺に出た方が良さそうである。
滝尻でN先輩は自分の車を回収、それに民宿で忘れたベルトを回収して、紀伊田辺に向かう。
紀伊田辺駅でAさんと分かれ、N先輩と紀伊自動車道を南に下る。曇り空であったが南に下るうちに雨となり、串本の潮岬に着いたときは大雨であった。駐車場に入るとこの大雨の中、係員が飛び出してきて駐車料金300円を要求する。駐車するも雨は強いまま、意を決して社外に出て潮岬灯台を見に行く。辺りは風も強く荒れた海で視界が悪い。景色もそこそこに灯台をバックに記念写真だけ取って車に引き返した。
そこから串本の名所、橋杭岩の道の駅に駐車、そこでは完全な暴風雨で車を出たところ、傘は強風にあおられてぶっ壊れてしまった。横殴りの雨で一瞬にしてズボンも靴の中もびしょびしょになってしまった。見学もそこそこにして、昼飯は車でちょっと戻ったところにある回転ずし屋に入ってお寿司を食べる。
民宿のある那智勝浦に車で行くも雨は一向にやまず、那智勝浦の街に入り、まだ宿にチェックインするにも時間があるので、たまたま喫茶店を見つけたのでとりあえずそこに入る。
幸い民宿はこの喫茶店の裏手にあり、コーヒー付きケーキセットを注文し時間を潰す。店のおばさんといろいろ話して、地元の日帰り温泉など教えてもらう。民宿に着いてとにかく教えてもらった日帰り温泉施設に行って濡れた身体を洗い流しさっぱりした。
さて民宿には夕食が付いてないので近くの食堂か寿司屋でもないかと雨の中、車で那智勝浦の町を巡るもそのようなお店は見つからずナビで調べた店も日曜日のせいか閉まっていた。しかたがないので、国道沿いのスーパーに行って出来合いの弁当とビールとおつまみを買って民宿に戻り狭い部屋の中で蛍光灯の下でふたり向き合って食べた。外は雨が降り続いたままであった。
【10/10(月)曇りのち晴れ】
朝、民宿の部屋から外を眺めると雨はやんでいた。昨日スーパーで買ったおにぎりを食べさっそく熊野三大大社のひとつである那須大社に向かう。那須大社は山の麓にあり、車でそのまま大社の前にある駐車場まで行けた。 朝が早いので駐車場が空いていたのがラッキーだったかもしれない。雨上がりの熊野那智大社は熊野本宮大社と違って鮮やかな朱色で包まれていた。 境内をさらに進むと古刹、那智山青岸渡寺がある。神仏習合のならいで社僧により祭祀が行われ、寺と同一の社であったが明治の神仏分離によって分かれた。その境内から有名な那智の滝が望めた。
那智勝浦大社をひととおり見学して、次に車で三大大社である熊野速玉神社に向かう。
42号線を北上して新宮の町の中心道路から右手に入ったところに速玉神社があった。
三大大社の中で一番小さいがここも鮮やかな朱色の社殿が晴れ渡った青空に映えて美しい。
これで那須三大大社を廻ったので、そこでN先輩と分かれる。 近くのガソリンスタンドで給油し、東京の自宅に向け長い道中一人で運転して帰るのであった。
感 想
世界遺産の熊野古道、なぜか古道歩きという言葉に一種のロマンを感じていた。
いざ歩いてみると急坂の山道あり、林の中の細い道であったり、集落の中の道を通ったりして、
最初は少々幅広い街道が続いているようなイメージを抱いていたのだが、少々違っていた。
かっての古道が人工的な整備もされずそのまま残っている箇所も多いということで、
昔の面影を少々とどめているのかも知れない。
この古道を平安時代の貴族がそのお供を連れて通ったというからには、昔の人の苦労がしのばれる。
我々のようなトレッキングシューズにアタックザック、速乾性の衣類を着て、
また暖かい布団に栄養豊かな食事にありつけ風呂も入れる宿もなかったであろう。
今回我々は中辺路だけのたった2日間の旅であったが、平安時代の人は京都から船で大阪にわたり、
阿倍野から岸和田、和歌山県の紀伊田辺を経て、この中辺路を通って熊野本宮大社までの大旅行である。
そこまでして熊野本宮大社を参詣する情念はなんであろう。
それだけ山奥に設けられた大神殿に対するあこがれ、また飢餓や病気が蔓延している世の中で安寧を求め、
ひたすら祈り続けた旅であったのであろう。
熊野の山奥に身を沈め、今回は雨にたたられたりして十分自然を身近に感じた旅であった。
ただ静かな山を歩きながら遠い過去の記憶を呼び覚ます旅でもあった。
それに現代でもコロナによるパンデミックやウクライナ戦争など激動と不安定な世の中で、
道端にひっそりとたたずむ王子跡や祠に健康や安寧を祈る気持ちにさせられるのは、
古の旅人と通じるところであろうか。
今回は本宮大社に続く最後の古道区間をすっ飛ばしたせいか、なぜか心残りを感じている。
いつか今回の穴埋めをしなければならないと気持ちが沸き起こっている。