熊野古道(中辺路)リベンジ編

行動概要

  • 報告概要
    先月に引き続き熊野古道中辺路を歩いてきました。
  • 行動日
    2022年11月7日(月)~10日(木)
  • 天 気
    11月7日 晴れ、8日 晴れ、9日晴れ、10日晴れ
  • 企 画
    個人企画
  • 装 備
    約7.0kg
  • 同行者
    Nさんと2名
  • コース概要
    10月8日(火)
    紀伊田辺→秋津王子→須佐神社→万呂王子→三栖王子→八上王子→田中神社→稲葉根王子→一瀬王子→鮎川王子→住吉神社→清姫の墓→滝尻
    10月8日(土)
    滝尻==小広王子入口
    小広王子入口→小広王子跡→迂回路起点→蛇型地蔵→湯川王子→三越峠→船玉神社→猪鼻王子→発心門王子→伏拝王子→三軒茶屋跡→祓殿王子→熊野本宮大社
    熊野本宮大社==川湯温泉


熊野参詣道中辺路

行動記録

行程図

■11月7日(月)

鶴川(6:03)+++町田(6:09,6:20)+++新横浜(6:41,7:00)+++名古屋(8:16,8:30)+++津駅(9:19)
近鉄津(9:30)==熊野本宮大社(13:00)
熊野本宮大社(15:05)==(龍神バス)==紀伊田辺(17:15)

■11月8日(火)

紀伊田辺(7:30)--秋津王子(7:53,8:05)--須佐神社(8:18,8:23)--万呂王子(8:43,8:47)--三栖王子(9:09,9:13)--八上神社(9:51)--田中神社(10:17,10:21)--稲葉根王子(10:47,11:08)--一瀬王子(11:53,12:25)--鮎川王子(13:05,13:10)--住吉神社(13:20)--道祖伸と庚申塔(13:47)--清姫の墓所(14:43,15:03)--熊野古道館(15:32)--滝尻民宿(15:35)

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■11月9日(水)

滝尻(6:52)==(龍神バス)==小広王子口バス停(7:31)
小広王子口バス停(7:35)--小広峠(7:47)--熊瀬川王子(8:03,8:05)--仲人茶屋跡(8:31,8:38)--岩上峠(9:20,9:24)--蛇形地蔵(10:13,10:19)--湯川王子(10:25,10:32)--三越峠(10:57,10:59)--船玉神社(12:14,12:18)--猪鼻王子(12:23,12:30)--発心門王子(12:44,12:50)--水呑王子(13:52,13:56)--伏拝王子(14:28,14:32)--三軒茶屋台跡(14:50,14:59)--展望台(15:21,15:32)--祓殿王子(15:56,15:58)--熊野本宮大社(16:00)
熊野本宮大社(17:00)===川湯温泉(17:30)

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■11月10日(木)

川湯温泉(8:00)==新宮(9:00)==橋杭岩道の駅(10:00)==串本回転寿司(10:50,12:00)==津駅(15:00)
近鉄津(15:38)+++名古屋(16:30,16:38)+++小田原(18:42,18:54)+++鶴川(20:05)

天気図

■11/8(火) 日の出 6:23, 日の入り 17:01  晴れ 20.2℃/12.1℃   3.9m/s 北北西 0.0mm

■11/9(水) 日の出 6:24, 日の入り 17:00  晴れ 20.4℃/11.0℃   1.9m/s 東北東 0.0mm

天気図、衛星画像 日本気象協会より転載、気象データ:気象庁@南紀白浜

アプローチメモ

  • 交通手段
    JR新幹線(新横浜→名古屋):   10,770円
               (名古屋→小田原):    8,570円
          近鉄名古屋線(名古屋→津):     1,940円
          近鉄名古屋線(津→名古屋):     2,040円
          小田急線(小田原→鶴川):       639円
          バス(熊野本宮大社→紀伊田辺):    2,100円
          バス(滝尻社→小広王子入口):      950円
  • 宿 泊
    紀伊田辺 ホテル花屋:        6,400円(1泊朝食付き)
          滝尻 古道の杜あんちゃん:      9,900円(1泊2食、弁当付き)
          川湯温泉 山水館まつや:       5,500円(1泊2食、全国旅行支援割引)

行動記録

 10月の熊野古道中辺路は滝尻から熊野本宮を目指したが、2日目にして熊瀬川王子で断念、バスで本宮まで行ってしまったが、後でいろいろ調べてみると発心門王子から本宮までが熊野古道で観光客も訪れるメインコースということであり、またた職場の同僚は滝尻から熊野本宮まで踏破したということで、やはりやり残し感が湧いてきた。そこで、最初に計画していた紀伊田辺から滝尻までのコースを足して、途中断念した熊瀬川王子から熊野本宮を踏破する計画を練った。そこで最初はひとり旅ということで、車で行くことの他、新幹線+電車、または高速バスで行くなどいろんな交通手段を考えた。一応計画表を作成した時点で10月の熊野古道に同行した伊那の先輩に連絡すると「行くよ」との快い返事、その返事に気をよくして、さらに車に同乗させてもらえないかと厚かましいお願いに対し、それもすぐに承諾していただき、ほんとにありがたかった。前回は車で行ったのであるが往路はAさんが同乗してくれたので運転を代わってもらったおかげで楽であったが、今回往復ともひとりドライブというのも少々気が重かった。ほんとにありがたい先輩である。
さてそうなると伊那に住む先輩と落ち合う場所をいろいろ考えた結果、三重県の津駅で落ち合うこととし、私は新幹線と近鉄を乗り継いでJR津駅で待ち合わせることとした。そこから熊野本宮まで先輩の車で行き、そこの駐車場に車を停めてそこから公共バスで紀伊田辺まで向かう。紀伊田辺でビジネスホテル、そこから滝尻まで歩いて前回宿泊した民宿に泊り、翌朝バスで小広王子前までバスで行って、そこから熊野本宮を目指すことにした。3日目の宿泊地は今度は温泉地として有名な川湯温泉のホテルとした。

【11/7(月)晴れ、微風】

 まず新幹線で新横浜から名古屋に向かう。新幹線で何気なくスマホをみていると先輩からもう津市に着くとの連絡が入る。名古屋駅で近鉄に乗り換えるのであるが、そこであわてて新幹線の改札口で指定席券と乗車券まで渡してしまい、JRの地下通路で直接近鉄の名古屋駅に直結していることを知らず、近鉄駅の改札口で駅員に話したらなんなくパスしてもらった。すぐに切符が買えたので、予定よりも早い電車に乗れた。平日のせいか乗客は少ない。三重県の津駅まではJRでも行けるのであるが、ネットの乗換案内ではどうしても近鉄線を選択してしまう。きっとそちらの方が早いのであろう。名古屋からJRでそのまま紀勢線で津まで行った方が乗車賃は安いと思ったが、先輩を待たすのも気が引けるのですぐに出発する特急電車に乗った。津駅まで約1時間、四日市を過ぎたあたりから車窓は近郊の住宅街とともに日当たりのよい田園風景も広がりっていた。
津駅を降りると駅前のロータリーに先輩の車が止まっていた。そういえば遅れては悪いと思い朝食も食べずに来たので、駅前ロータリーにあるコンビニで朝食を調達。先輩は1時間以上前に津市に到着していたとのことである。

さっそく高速道路に入って熊野本宮を目指す。車内でいろいろしゃっべっていたせいか、途中のジャンクションで伊勢道に入ってしまい、引き返すというハプニングがあった。また紀勢道に途中通行止め区間があり、途中で地道に下りる羽目になったが、渋滞もなく順調に走り午後1時に熊野本宮に到着した。それまで昼食を我慢していたので、前回と同じく「宮すし」でちらし寿司を食べる。昼食後、旅支度をして予定のバスに乗り込む。今度は紀伊田辺駅まで約2時間のバス旅である。
バスは途中の近露で約10分間のトイレ休憩を経て夕方の5時過ぎにJR紀伊田辺駅に到着した。あたりはもう薄暗い。さて今宵の宿であるビジネスホテルの「ホテル花屋」が見つからない。スマホ地図を頼りに道を辿ると道路から少々入ったところにホテルはあった。受付が2階で狭いエレベータで上がる。部屋は少々古びた感じはするが、まあ1泊するのであれば問題ない。さっそく部屋に荷物を置いて先輩と食事に出かける。駅の方に近づくと居酒屋風の店が2~3軒あり、その中で魚炉端焼きの店に入る。とにかく無事紀伊田辺まで着いたことで乾杯。

【11/8(火)晴れ、微風】

 ホテルの朝食は7時からであった。こちらは出来るだけ早く出発したいので、7時前に2階の食堂に向かう。その食堂は喫茶店であろうか、あたりの壁面や置物が西部劇で出てくるようなビンテージ品で飾られていた。この宿の主人の趣味であろうか、壁にはライフルなど飾られている。ただどれも少々古びているのが気になった。先輩もすぐ食堂にやってきて朝食を済ませ、ザックを担いでホテルの外に出る。日差しが明るく青空でお天気の心配はない。やる気が出てくる。
 さて最初は紀伊田辺市内の通りを行く。ちょうど通勤時間帯になるのかマイカー通勤の軽自動車が狭い道を通り過ぎていく。紀伊本線の渡ったその先で太鼓焼きの店が開店しており、甘い匂いにつられ2個購入。市街地なので熊野古道なる案内板は一切なし。YAMAPの地図を頼り最初の王子である秋津王子を目指す。


ホテル前の道から出発

紀勢本線を渡ります

市内のアスファルト道路を地図を頼りに歩いてやっと秋津王子に辿りつく。石碑はなんとアパートの駐車場前にひっそりと建っていた。標識があったのでそれが王子跡と認識できるが、この標識がなければとても見つからないであろう。古道歩きの雰囲気はなく、また前回のように古道歩きをしている人もまったく見かけない。とりあえず、その駐車場の脇で買ってきた太鼓焼きをほうばる。


集合住宅前にひっそりとある秋津王子

秋津王子

次の目的地は須佐神社であるが、その入口は交通量の比較的多いアスファルト道路に面していて、あまり熊野古道の神社という雰囲気はない。鳥居をくぐり石の階段を登ったところ、普通の神社にある境内といった感じで特筆するようなものはなかった。


須佐神社

須佐神社

市内の道路は通勤時間が過ぎたせいか少々車の往来は少なくなってきた。また郊外に出たせいかあたりは広々とした田園風景に変わってきた。次に目指すのは万呂王子であるが、これがなかなか見つからない。YAMAPの地図には確かに表示されているが、あたりの道に標識など何もない。地図が示す地点をさらによく見ると林の中、果たして道路から梅畑を踏み分けていくと万呂王子の標柱があった。ただ標柱があるだけで石碑もなにもない。私有地の中となるのであろうか、大々的に整備できないのかもしれない。
万呂王子の次に三栖廃寺塔跡があるが寄り道となるのでパスして三栖王子に向かう。小さな橋を渡って民家の脇を丘へと続く小道に案内板があった。やっと熊野古道らしき道に出会う。山道を少々登っていくと右手に三栖王子があった。


万呂王子

三栖王子

三栖王子は小高い丘の上にあるので、そこから郊外の風景が望めた。そこから一旦下り、再び丘を越える。 しばし山道。途中ミカン畑の中を通る。ミカンの木が道のすぐそばまで広がっており、黄色く色づいたミカンがたわわに実っている。手を伸ばせばすぐにでももぎ取れるが、それはしない。下っていくとやがて交通量の多い幹線道路に出る。そこからすぐに脇道に入ったところに八上王子の標識があった。また、そのすぐそばに八上神社があった。


三栖王子からの眺め

八上王子

■八上王子跡
天仁2年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は、10月22日「田之部」(田辺市)王子に奉幣後、萩生山口で昼食をとり、山を越えて新王子社に参拝しています。 この新王子は地理的に見て、八上王子社だと推定されます。 西行が熊野参詣の途中に立ち寄り、「待ちきつる八上王子社の桜さきにけり荒くおろすな三栖の山嵐」という歌を詠み、社殿に書き付けたことで知られる王子社です。 西行と同じく、歌人として著名な藤原定家も建仁元年(1201)10月13日、後鳥羽上皇の参詣に随行して「ヤカミ王子」に参拝しました。 藤原頼資は承元4年(1210)4月28日、大風雨の中、修明門院の参詣に随行して、この王子社に参拝しており、王子社名を「八神」と書いています。 江戸時代には八上王子社と言われ、拝殿と経堂が設けられていました。明治時代に八上王子神社となり、現在に至っています。 11月23日の例祭で奉納される獅子舞は、県指定の無形民俗文化財です。


ここまでずっと歩き通しなので休憩を取る。無人販売の棚にミカンが一袋100円とあったので購入。また神社の前の家では叔母さんとお姉さんがひょうたんを紐に吊るす作業をしていた。話しかけるとひょうたんを干して絵具で装飾しお正月のお飾りにするそうだ。ひょうたんを見るのはほんとに久しぶり、子供の頃以来か。子供の頃はへちまとともによく見かけたものだが、何をして遊んだろうか思い出せない。まさか昔の人のように水筒代わりにした記憶はない。でもなんか懐かしい気がした。


八上神社

神社前でひょうたん干し

叔母さんの励ましを受けて出発。 しばらくするとなんか足にマメが出来そうな感じがしたので、トレッキングシューズの紐をきつく縛る。 おそらくきつく縛っていなかったので、足が靴の中で動いていたのでだろう。 これまで靴紐の縛り具合まであまり気にしたことはなかったが、固いアスファルト道路を歩く場合は気をつけなければならないと改めて認識した。
畑の中のまっすぐな道を歩いていると右手に田中神社の標識。広々とした田んぼの中にこんもりした森の中に神社がひっそり建っていた。境内は大きな木々に囲まれ、心地よい風が吹き抜けていた。


田中神社

田中神社

田中神社からはしばらく畑の中のまっすぐな道を進む。 幹線道路がトンネルとなっている丘を越えると国道311号線に出る。 次の目標である稲葉根王子は、紀伊田辺に向かうバスで確かバス停があったところ。熊野本宮からのバスは停車するバス停があまりなかったので印象に残っている。富田川の河原付近にあるのではと想像していたが、稲葉根王子は国道沿いの川の反対側にあった。稲葉根王子に向かう途中でスーパーがあり、中を覗くとパンやおにぎり、弁当まで売っている。今回はコンビニがないと想定していたのであるが。


田園風景の中を進む。先に見える丘を越えていく。

丘を越えると富田川沿いの国道311号線に出た。

稲葉根王子は熊野九十九王子の中でも社格の高い准五体王子とのこと。ここまで出くわした神社の中では大きい方である。お日様を受けて固い道路を長時間歩いてきたので疲れた身体に木陰が心地よい。ここでやっと今日の行程の半分、昼食を取るにはまだ早いので次の一ノ瀬王子に向かる。


稲葉根王子

稲葉根王子

稲葉根王子を過ぎてしばらく国道311号線を冨田川に沿って上流へ向かう。途中市ノ瀬橋を渡り冨田川左岸を歩く。


市ノ瀬橋から富田川の下流を望む

市ノ瀬橋から富田川の上流を望む

■水垢離の熊野古道中辺路
熊野の西端に位置する上富田町は、古くから水陸交通の要衝地として栄えてきました。 平安時代中頃より、熊野信仰が盛んになり中辺路街道は、表参詣道としてにぎわいをみせ道沿いには、道中の安全を祈願する「王子社」と呼ばれる神祠が祀られ町内には八上、稲葉根、一瀬の三王子があります。 冨田川は、古くは「岩田川」と呼ばれ熊野参りの水垢離場として、平安物語や源平盛衰等にも記されています。 この川を一度でも渡れば今までの罪がことごとく消え去ると信じられ、多くの古歌も残されています。

  いはた河渡る心のふかければ、
  神もあはれと思はざらめや
             花山院


一ノ瀬王子? いや、一ノ瀬王子入る道の入口にあったお地蔵さん

一ノ瀬王子

■一ノ瀬王子跡
建仁元年(1201)10月13日、藤原定家は徒歩で「石田河」(岩田川=冨田川)を渡り、この王子に参拝しています。 平安・鎌倉時代の熊野参詣では、岩田川の瀬を何度もわたり、滝尻まで行きます。最初に渡るのが一ノ瀬です。 天仁2年(1109)に参詣した藤原宗忠は、19度も渡っており、上皇や女院も徒歩で渡ります。この川の水で身を清めるためです。 「女院が渡る時は、白い布を2反結び合わせて、女院が結び目を持ち、布の左右を殿上人が引いた」と、応永34年(1427)に参詣した僧実意は日記に書いています。 その後、この王子社は荒廃し、江戸時代に再興されて、市瀬王子社、別名、清水王子・伊野王子などと呼ばれていました。 明治時代に春日神社に合祀されましたが、昭和44年(1969)に現在のように整備されました。


アスファルト道路を抜け、集落の道から脇にある藪の中に入ると一ノ瀬王子があった。ここでやっと昼食タイム。仕事しているLINE仲間から様子を知らせよとのメッセージが入っていたので、辺りの景色とともに報告。そうか今日は平日でみんなお仕事中でしたね。
再び冨田川に沿ってさらに上流へ向かう。青空の下広い河原で気持ちがいいのであるが、だんだん足裏が痛くなってきた。次の目標は鮎川王子。


河原の広い富田川

加茂橋から対岸の住宅街を望む

国道311号線と冨田川に沿って上流へ向かう。対岸に丘にある住宅街を登っていく急坂が見える。案内板に沿って冨田川に架かる加茂橋を渡り、その急坂を登って住宅街に入る。住宅街にある案内板に沿って進むが結局住宅街を抜けて311号線に下りてきたところに鮎川王子があった。あの住宅街を通る意味はあったんであろうか、本来の熊野古道コースということであろうか。311号線をそのまま進んだ方が早道だったのであるが。


鮎川王子

鮎川王子、バス停は鮎川新橋

鮎川王子を過ぎてまた冨田川に架かる鮎川新橋を渡る。そこからは道は少々冨田川から離れる。


鮎川新橋を渡る

住吉神社

住吉神社を過ぎてしばらく集落の中の道を歩くとやがて小道に差し掛かる。その入り口に道祖伸と庚申塚があった。 そこからは川に沿って山の斜面を横切った小道が続く。林の中の狭い山道であるが、高低差がないのでどんどん上流に進んでいく


■道祖神と庚申塔
道祖伸は村の出入り口に立つことが多く、夫婦和合、五穀豊穣、交通安全・家内安全の神として祀らわれております。 庚申塔は、道祖伸と同じく疫病や災害から村を守る神として村の出入り口に建てられています。 庚申(かのえさる)の日は夜明かしをする風習や、ものを失くしたとき、庚申を荒縄で縛ると失くした物が見つかると言われております。


住吉神社

道祖伸と庚申塚

山道になる

新旧2体庚申塔

林の中の道を抜けると再び集落の道を冨田川に向かって下りていくと古い吊り橋があった。 橋を渡ったT字路で清姫の墓という案内板があり、いよいよ最後の目標が近づいてきた。


徳本上人碑

つり橋の北郡橋

アスファルト道路を上流に向かって40分ほどで清姫の墓に到着した。 そこはお墓というよりは社殿がありその前はちょっとした広場になっていて散歩した人が休めるようにベンチもある。 ここでは熊野詣にまつわる物語でもっとも有名な安珍清姫の物語がある。清姫は蛇身となって僧侶を道成寺まで追い、道成寺の鐘に巻きついて、中に隠れていた僧侶を焼き殺してしまうという悲恋の物語ということで、なんだか女の執念を彷彿させる伝説である。
ここのベンチで最後のミカンを食べ鋭気を養って今日のゴールである滝尻を目指す。


清姫の墓

左の石碑が清姫の墓

滝尻が近づいてきた

民宿あんちゃんの前では梅を干していた

やっと今宵の宿である民宿あんちゃんに着く。おばちゃんは我々を覚えていて、 今度はリベンジで小広王子口から熊野本宮を目指すと言うと、朝一のバス(6:52発)に乗った方がいいよということで、朝食もその前に提供してくれるとのことだった。
宿泊客は今回は中年の男性が二人、どうやら釣りに来たらしい。遅れて叔母さんが一人食堂にやってきて、カウンターで宿の主人と親しいそうに話している。後で聞くと絵を書きに来ているという。 宿の主人から今晩の夕食は冨田川の鮎が入ったので特別に提供したとのこと。ここの鮎は海から富田川にさかのぼってきた鮎だという。確かに淡白な鮎とは違い少々特別な味がした。
今日は皆既月食だったので、夕食後外に出てみると寄空にはすでに赤い月がうっすらと昇っていた。

【11/9(水)晴れ、微風】

朝食を済ませ、外に出るとまだ太陽は出ていないが快晴、バスは予定の時刻より少々遅れて滝尻のバス停に来た。 乗客はわれらの他にひとり、そのうち我々だけになり、小広王子入口でバスを下りる。
さてバスに乗って気が付いたのであるが、ボトルに水を入れるのを忘れた。またお茶のペットボトルを買うのも忘れた。 これから長い道中、果たして水なしで行けるか少々気になる。まあどこかで自動販売機、または水が汲めるところはあろう。


滝尻の民宿あんちゃんとご主人

熊瀬川王子下にある分岐、ここからが未踏コース

バス停からはアスファルトの林道を少々登って前回通った熊野古道コースに出る。小広王子を過ぎトイレのある場所で自販機があるのではと期待したが何もなかった。熊瀬川王子に行く手前の分岐で熊瀬川王子に向かわず草鞋峠に向かう。すぐに墓石が並んだ墓地らしいところに出て、傍に一里塚跡の標識があった。このお墓群はどうもで熊野古道の王子とは関係なさそう。


一里塚跡の側にあるお墓

一里塚跡

■一里塚跡
江戸時代、和歌山から本宮までの熊野街道の1里ごとに、道の両側に塚を築き、その上に松を植えて、里程の標識としていた。 ここがその一里塚の跡で、以前は大きな松の株が残っていた。 寛政10年(1798)の「熊野詣紀行」には、草鞋峠の説明の中に、 「坂中に一里塚、若山より廿八里の塚也」と記されていて、当時の道で和歌山からここまで28里(112km)であったことが知られる。


山道をだらだら登って草鞋峠を通過、そこから下ってアスファルトの林道に出る。単に峠を越えただけである。 本来は岩神王子に続く山道が正規ルートであるが、どうやら崖崩れで道が崩壊したのか長い間通行止めのようである。


草鞋峠

岩神王子への道は通行禁止

林道を下って迂回路と示された案内板に従い、迂回路を行く。


迂回路を行く

蛇形地蔵

迂回路は立派な山道で歩きやすかった。その迂回路が終わる付近で蛇形地蔵があった。


■蛇形地蔵
この付近で出土した海藻の化石が蛇の鱗のように見えることから「蛇形石」と名付けられ、 それを背において祀らわれているこの地蔵尊は「蛇形の地蔵さん」とも呼ばれ、 明治22年の大水害以前は旧岩神峠にあったという。 言い伝えによれば、熊野を往来する人々がよくこの峠で「ダル」という妖怪にとりつかれて倒れるという遭難が相次いだため、 寛政年代に岩神峠にこの地蔵尊を建てて旅人の遭難を防いだという。 明治の大水害時には、岩神峠から不思議な音が聞こえ、村民は脱出し遭難をまぬがれ、そこに地蔵尊をここにお迎えし祀ったという。


湯川川を渡り鬱蒼とした森の中を進むと湯川王子に出くわした。 このあたりは往時には参詣の途上の宿泊地として機能し、皇族などもこの地に宿泊することが多かったとのこと 。国道311号の開通後に過疎化が進み、道湯川村(どうゆかわむら)集落も昭和31年に無住の地となってしまったとある。 確かに山に囲まれた平地であり、湯川川が流れていて、それを頼りに生活していたと思われるが、あたりは杉木立に囲まれうす暗くて、 果たしてこのような場所に集落があったとは思えない程荒廃していて、湯川神社の社殿と鳥居があるだけであった。 湯川神社の入り口には皇太子行幸の石碑が建っていた。


湯川王子

湯川王子の社殿

■道湯川集落跡
道湯川集落は、室町時代(1336~1573)に日高郡に勢力を誇った湯川氏一族発祥の地として知られる。 この集落は、建仁元年(1201)10月に後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記に「湯河宿所」とみえ、 承元4年(1210)5月に修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記には、この周辺で休憩をとるなど したことが記されている。 また、応永34年(1427)9月に足利義光の側室北野殿が参詣した折には、 「奥の湯川」を称する豪族が歓待したと記されるなど、少なくとも鎌倉時代(1185~1333)には人々が住み、 室町時代を通じて貴族らの宿場や休憩所として繁栄していたことがうかがえる。 その後の江戸時代(1603~1867)寛政10年(1798)の紀行文にも、「人家多く宿茶屋あり」とあり、 この集落は長く人々が住み、また参詣者らが行きかっていた様子を知ることができる。 しかし、昭和31年(1956)に最後の住民が離村し、廃村となった。


湯川王子

三越峠の休憩所

三越峠には休憩所があり、トイレで立ち寄っていると二人連れの女性パーティがやってきた。 我々と同じく熊野本宮を目指すという。
三越峠から再び山道に入ってしばらくすると辺りの木々を伐採した開けた場所に出た。そこには沢から水が流れており、やっとボトルに水を汲むことが出来た。そこからしばらくすると音無川に出てきて、その川沿いの道を歩く。あたりは緑の木々が青空の下で輝いていて紅葉もあったがかすかに色づいた程度であった。心地良い爽やかな道を進むと広場に出くわした。そこは湯の峰温泉へと続く赤木越との分岐場所である。その赤木越への道の反対側に船玉神社があった。


赤木越への分岐

船玉神社

船玉神社から林道歩きとなりそのまま発心門王子まで続くかと思ったが、林道から分かれた山道の中に猪鼻王子があった。そこから再び林道に下りてきてそのまま発心門王子に向かうかと思いきや案内板はまたまた右手の土手に小さな階段の道を示している。地図を見ると確かに林道をそのまま進むよりはショートカットであるが、ここまでいい加減疲れてきたので登りは少々辛い。この山道で峠を越え林道を下りてきたところに発心門王子があった。


■猪鼻王子跡
滝尻王子から本格的な山岳路となった熊野参詣道(中辺路)は、十丈峠、岩神峠を過ぎ、標高約500mの三越峠を越えると、熊野川の流域に入る。 この猪鼻王子から先の道は、登り下りを繰り返しながら高度を下げ、明治22年(1888)の水害まで熊野本宮大社が鎮座した熊野川の中州「大斉原」へと続く。 「猪鼻王子」と刻んだ石碑は、享保八年(1723)に紀州藩が熊野御幸の史跡顕彰のために建てたもので、紀北産の緑泥片岩製である。


猪鼻王子

発心門王子

発心門王子に来てやっと昼食とする。神社は大きな木々に囲まれ日陰となっているので、日当たりのよい隣の駐車場に座って民宿あんちゃんのお弁当を食べる。ついでにお湯を沸かして暖かいお茶を作る。


■発心門王子跡
熊野川の中州に鎮座する熊野本宮まで約7kmの所にあるこの王子の名は、 発心門すなわち「悟りの心を開く入り口」とされる大鳥居があったことに由来する。 天仁2年(1109)に参詣した貴族・藤原宗忠(1062~1141)は、まず門前で祓いをし、 発心門は大鳥居であり、参詣の人々は必ずこの大鳥居をくぐること、また はるかに見遣ると恐れを感じることを日記に書き残している。  また、建仁元年(1201)に和歌の講師として後鳥羽上皇の熊野御幸に共奉した貴族・ 藤原定家(1162~1241)は、王子社の背後にあった南梨房という尼の居宅を宿舎とし、 門柱に感動と祈願を込めた漢詩と和歌を書き付けている。  熊野九十九王子の名称は地名や地形に基づくことが多いが、 発心門王子の場合は信仰に関連する命名の代表であり、この王子の果たした役割の大きさを表している。


発心門王子からはアスファルトの林道歩きとなる。途中大きなバス停があり、そこに自販機はあったがもう遅い。 この辺りは集落になっており、時おり地元の人ともすれ違う。


水呑王子

水呑王子の側にあった井戸らしき石のマンホール

■Mizunomi-oji
Mizunomi-oji is known as a shrine with a water source. A stone monument was erected here in 1723 by the feudal lord of the Kishu domain (present-day Wakayama prefecture). There are also small stone Jizo statues to the left of the fountain. Jizo is a Bodhisativa, or a being that popular deities in Japan. Jizo is the saviour and protector of children and travelers, but also takes on other forms of folk belief. The small Jizo on the right is spit horisontally in the middle. People put coins in the crack and pray for relief from their backaches.


水呑王子を過ぎてなにか学校らしい建物の側を通っていく。明治9年から三里小学校三越分校であったが、昭和48年に廃校となり、そのあと観光施設として使用された。現在は廃業となっているとのこと。 熊野古道の道は整備されていて石畳が続いている。


和泉式部供養塔

伏拝王子石祠

熊野古道のメインルート、いや観光ルートよろしく道は整備されている。その道から脇道に入ったところに伏拝王子があった。またその石碑の横には和泉式部の供養塔がある。昔学校で習った和泉式部が実在していたのだということで身近に感じた。


■伏拝王子跡
京都を出発した熊野参詣の人々は、およそ260km、歩行12日前後でこのあたりにたどり着いた。 そして、熊野三山巡拝の最初の目的地である本宮が、遥か彼方の熊野川の中州に鎮座する光景を目の辺りに見て、感動のあまり「伏して拝んだ」という。  また、この王子には、熊野本宮を目前にしてにわかの月の障りとなり、参拝を断念しようとした女流歌人・和泉式部を、熊野権現が快く受け入れたという伝説もある。  境内には和泉式部の供養塔と、一定の距離を示すために13世紀に建てられた笠塔婆がある。


明るい古道をゆく

三軒茶屋跡

東屋に出くわしたが三軒茶屋というところ、また関所跡もある。ここは十津川温泉方面からの熊野古道小辺路との分岐点でもある。そこに老年の男女4~5名がたむろしていた。 彼らは車で来たという。まったくの観光客である。我々紀伊田辺から歩いて来たというと怪訝な顔をしていた。
三軒茶屋からはいよいよ最終段階、広い山道をだらだら登っていくと寄り道展望台との案内板。ここを寄らずして熊野古道の感激を味わうことは出来まい。果たして展望台に出ると林の向こうに大斉原の大鳥居が望めた。昔と風景とは異なっていると思うが、古の人達もゴールの熊野本宮大社が望めた時の感慨はいかばかりか、我々は紀伊田辺から歩いて来たがここから熊野本宮大社の大鳥居を見るとやはり感慨深い。


九鬼ヶ口関所

寄り道展望台から大斎原

再び熊野古道の石畳の階段を下りてやっと住宅街に出る。そこからすぐに祓い殿王子があった。


熊野古道からの出口

祓殿王子

しばらく住宅街の坂道を下ると熊野本宮大社の裏口に着いた。いよいよこの旅路の終了である。 裏門の鳥居の前でまずは記念写真。


熊野本宮大社神門

熊野本宮大社の鳥居を出て熊野古道踏破終了

今回は熊野本宮大社を裏手から入る。もうあたりは夕暮れの気配、しかし境内は観光客なのか参拝客がたむろしていた。 神門を出て参道を下って本宮入口の大鳥居を出たところで。今回の古道歩きは終了。正直疲れた。
本宮前の駐車場で先輩の車に行ってひと休み。そこから今宵の宿である川湯温泉に向けて出発。 もう薄暗くなっている中、地図を頼りにホテルを探すと川湯温泉街のもう外れというところにホテルがあった。 チェックインするとなんと全国旅行割引が適用されるということで、宿泊代が5,000円も安くなった。もともとそんなに高い宿ではないし、別館の古い建物であった。部屋はビジネスホテル風でなので、ベットがあるのかなと思ったら部屋の真ん中に畳間があり、そこに布団を敷くといったやや風変わりな作りであった。 夕食や大浴場は本館に行かなければならない。さて夕食であるがバイキング形式で前回の湯の峰温泉の仕出し弁当と比べ雲泥の差であった。本館の食堂は本館の宿泊であろうかほぼ満席であった。

【11/10(木)晴れ、微風】

 朝食も本館の食堂で食べるのであるが、これもバイキング形式、ほんとに充実した食事であった。食堂は川に面していて、窓越しに川を眺めると白い湯煙りが時々たなびいていた。
ゆっくり食事を済ませた後、東京に帰る前に瀞峡の船下りをしようということで、予約する案内書がある道の駅に行くと本日はすべて満席とのことであった。やはり全国旅行割引の影響なのか団体ツアー客で買い占められているようだ。仕方がないので先月大雨で満足に観光が出来なかった那智勝浦に行って橋杭岩、それに回転寿司屋でお昼ご飯を食べてJR津駅に向かった。
JR津駅で先輩と分かれ、近鉄特急で名古屋に行き、そこで新幹線で帰る。今度は急ぐ必要がないので、もっとも安い選択として新幹線は小田原で下車し、そこから小田急に乗り換えて自宅に帰った。

感 想

先月に引き続き熊野古道、中辺路に来た。これで紀伊田辺から熊野本宮まで踏破したこととなったが、後で分かったことであるが中辺路はその先の熊野本宮から川を下って熊野速玉神社、それから熊野那須大社を経て、そこから大雲声、小雲越をして熊野本宮大社まで戻るコースまでを含むということであった。 ということで、中辺路を制覇したことには残念ながら言えない。そういえば先月の熊野古道ですれ違ったアメリカ人ツアー客が我々と同じく熊瀬川王子でバスに乗って熊野本宮まで来たが、その後発心門王子から熊野本宮まで歩く、その次に熊野川下り、それから大雲越えをするようなことを言っていた。海外からきて中辺路のほとんどを踏破するという誠にハードなツアーであったことに改めて感心した。
それにしても紀伊田辺から滝尻までのコース、今回我々は初日で26.2km、二日目で20.3kmという距離で足に少々筋肉痛、足裏は腫れあがって少々痛い。ほとんど住宅街の中とかアスファルト道路歩きを強いられ、古道というには程遠い。特に紀伊田辺から滝尻はあまりトライする人はいないであろう。前回が滝尻から近露まで9.4km、近露から熊瀬川王子まで8.4kmなので、紀伊田辺から熊野本宮大社までは、64.3kmとなる。
それにしても昔の人は草鞋でそれ以上の道のりを歩き通して熊野本宮大社を目指した。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した後鳥羽上皇にいたっては24年の在院期間のうちに28回、往復におよそ1ヶ月費やす熊野御幸を行ったとある。上皇などの貴族も含め上下貴賤男女を問わず大勢の人々が熊野本宮を目指すということに改めて信仰の深さにただただ驚かされる。人々は浄土に生まれ変わることを願って、熊野を詣でたということである。

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