~東日本大震災~

JAXAに出向していたおり東北地方に大震災が起こり、JAXAで開発していた超高速インターネット衛星"WINDS"を震災地で活用するため、急遽東北に派遣された時の記録です。

震災日誌

■3月11日(金) 曇り

 11日は筑波の総開棟と呼ばれるビルの8階にいたが、今までにない強い揺れを感じた。 しばらくして揺れが収まると外に出るよう館内アナウンスがあり、ビルにいる全員は階段で下まで降りて広場に集合した。
 広場では誰かが携帯のワンセグで臨時ニュースを見ていて、そこからただならぬ状況であることを知った。しばらくして職場の業務は中止、解散となり帰宅してもよいとの指示が出た。 その日は夕方5時に出向元の部長と打合せの約束があり、状況は分からないがとにかく自宅がある東京に戻ろうを思い、つくば駅に向かった。
 つくば駅に行くと電車はすべてストップ、駅構内には入れないし駅員からは当面動かないと言われた。仕方なく単身赴任のマンションに引き返す。 ちょうど陽が沈むころで、マンションの部屋に入ったら停電で真っ暗、マンションには懐中電灯やろうそくもないので、 急いで店に買いに行ったがほとんどのお店はクローズ、またまた仕方なくマンションに戻った。
 エアコンが効かない部屋の中は寒いし、しかもまっくら闇、テレビも見ることできず何もすることがないのでそのまま布団に入って寝てしまった。 翌朝4時過ぎであったろうか突然部屋の明かりが灯り、電気が復旧したようなのでテレビをつけてみるとただならぬ大惨事であることを知った。
 週末の土日、電車はまったく動く気配がなく東京に戻れないので、とりあえず食料を調達するため、駅前の店に買い出しに出かけた。しかし、水、肉、魚などすでにきれいに棚からなくなっていた。 少々不安になり、インスタントラーメンとかスパゲティとか長持ちしそうな食材をいささか買いこんだ。 マンションのベランダから周りを見ると普段と変わりない風景で、特に目立った災害は目に入らなかった。近所をぶらぶらすると、ところどころ家の屋根瓦が落ちていたり塀のブロックが崩れていた。

■3月14日(月)

 14日(月)は出勤し、現在抱えている仕事で3月納期の設備に対する無線局免許のためのデータ取得に対する段取りなどメーカーとの調整に追われた。 そこで、翌火曜日にマイカーで東京に一旦戻り、水曜日に電波免許データ取得という予定を立てた。しかし、東京に戻れるか確かめることができなかった。

■3月15日(火)

 この日は東京に戻れないので職場で引き続き仕事をしてマンションに帰宅した。 その夜11時頃、上司のマネージャから突然電話がかかってきて、明日から岩手に行ってくれとのこと、また3月納期の設備に対する電波免許など遅れても良いとのことであった。 こちらからは年度末なので納期が間に合うか焦っていたので、あまりに唐突な話なので明日の電波免許取得作業を終えてから出発してもいいのではないかと 申し入れたが、理事や理事長まで含めた会議で、通信衛星を使った救援作業のため職員を派遣する話が持ち上がっていてトップダウンの指示だ、とのことであった。

■3月16日(水) 晴時々曇り

 16日の朝、マンションにあるあり合わせのセーター、下着などをザックに詰めこんで出社したが、高速道路の通行許可取得とかトラック手配など準備が整わず、結局翌17日(木)に出発することとなった。 そこで、納期が迫っている無線設備の電波検査データ取得について、その日に工場のある那須まで車で行って作業を済まし、その日のうちに筑波に戻った。 なお那須にある工場でも計画停電の影響があり、データ取得の準備や作業に苦労したとのことであった。 日本中が震災で右往左往している中、なんとか電波検査データの取得を無事終了することが出来た。

■3月17日(木) 曇り、微風

 17日の朝は早々に職場に出て荷物の点検などして衛星アンテナ設備や自家発電機等をトラックに積みこみ、 我々通信担当のグループを乗せたマイクロバスとトラックは9:00ちょうどに筑波センターを出発した。
 常磐道から東北道を通って盛岡に向かうが、高速道路は一般車両は完全に閉鎖され閑散としている。 時折自衛隊の幌の着いたトラックやジープ、また福岡県警のパトカーの隊列、通信会社の車両や救援物資輸送と表示された幕を取り付けたトラックが北に向かって通り過ぎていく。 特に自衛隊のトラックは幌のついた荷台の中で隊員達が寒い中窮屈そうに並んで座っているのを見るにつけ、我々は暖房の効いたマイクロバスに乗っていることにちょっと申し訳ない気持ちにさせられた。 途中高速道路のSAで休憩を取ったが、照明が点かない暗い店内でほそぼそと営業をしていた。 またあるサービスエリアではおばちゃん達がおにぎりを無料で提供していた。 そうこうして、閉鎖されている東北道を突っ走しって盛岡の岩手県庁に着いたのは夕方6時であった。 岩手県庁のビルの中に入ってみるとあわただしい気配がしている。さっそく県災害対策本部の担当者に挨拶し、担当者からは我々のために乗用車を1台用意してくれていること、また盛岡市内のホテルも手配してくれていた。 その若い担当者からは、震災当日に口にしたのはおにぎり2個だけだったとのことであった。
 その日は関係者への挨拶だけで終了し、県庁にほど近いビジネスホテルでチェックインした。 ビジネスホテルは館内は暗いながら通常どおりの営業をしていたが、宿泊者は役所関係や報道関係者だけのようであった。 さて夕食を取ろうと思い、幸いホテル前の呑み屋が開いていた。 トラックの運転手から酒も勧められたが、とてもその気になれず遠慮して早々にホテルに引き揚げた。


ものものしい岩手県庁

衛星機材を運んできたトラック

■3月18日(金) 晴時々曇り

してくれていた  翌18日の朝、県庁10階のベランダにアンテナを設置し、その後県庁組と釜石組に分かれ、 我々釜石組は12時に釜石合同庁舎に向け出発した。釜石に向かう車は県職員の方がバンを手配してくれた。
 3時過ぎに釜石合同庁舎に到着し担当者に挨拶を済ませ、その後トラックから荷物を運び出して合同庁舎屋上にアンテナを設置し通信回線の設定作業を行う。 携帯電話で盛岡県庁とやり取りするが、その携帯電話がなかなかつながりにくく、一旦通話を終了して切ってしまうと今度は再度発呼するもほぼ話中となる。 このような大災害でみんな唯一の通信手段である携帯電話を使っていると思われるが、その携帯電話の基地局やその基幹回線も被害を受けているので利用できる回線が非常に限られている。 従って、相手と回線設定作業をする間は一旦つないだ回線はそのまま切らずにずっとつなぎっ放しにした。 作業している間にも時折余震が来るのでちょっとヒャッとする。そうこうして一連の作業が終了したのは夕方6時過ぎであった。
 宿泊場所も県庁で紹介してもらっていたが、釜石市内は当然営業している宿は一軒もなく、手配してくれていた宿は釜石から車で40分程かかる遠野市の小さな旅館であった。 朝、晩2食付であったが、我々一行は相部屋で風呂はなし、暖房も控えてくれ、と言われた。 宿泊客は報道関係者だけのようであった。小さい宿は狭い玄関や食堂にもなんの機材か分からないが荷物であふれていた。


岩手県庁に設置したアンテナ

釜石合同庁舎屋上に設置したアンテナ

岩手県庁とのテレビ会議システム設定

釜石合同庁舎の方による確認試験

■3月19日(土) 晴時々曇り

 釜石に来て2日目、岩手県庁やつくばセンターとテレビ会議やインターネット接続の設定した。 我々の機材の一部は屋上出口の階段踊り場に設置しているが、そこには海上自衛隊の通信隊も無線機を設置して張り付いている。 彼らは屋上にケーブルを張って短波通信を行っており、それこそ24時間体制、階段踊り場で寝泊まりしている。狭い階段踊り場にカーキー色の毛布や缶飯が散らばっている。 あまり詳しく説明してくれなかったが、ここに来た目的は「人命救助」とのことで、どうやら釜石沖で救助している巡視艇との通信を担当しているようである。 通信特有の、また自衛隊特有の専門用語を使って交信しているが、時折「遺体発見」という言葉を耳に入る。 するとしばらくして、この近くの学校校庭にある自衛隊基地までヘリコプターが飛んで来る、その後しばらくしてサイレンを鳴らして救急車が学校に向かって行くのが見える。 我々と違ってまさしく人命救助の最前線に立っているのだな、と実感する時である。
 そのような自衛隊とともに我々衛星回線設定隊は回線モニターをしているうちに突然通信不能となり、階段踊り場の扉を開けて屋上に出てみるとなんとアンテナが吹き飛ばされていた。 運悪くその日は釜石の谷沿いに沿って強い北風が吹いていた。アンテナをしっかり固定しなかったせいでパラボラアンテナが吹き飛ばされ、アンテナ機器の一部も破損してしまった。 真っ青になって急遽予備として持ってきた45cmアンテナを組み立て、県庁との通信回線を設定し事務室のテレビ会議システムをセットできたのは夜の9時過ぎであった。


釜石合同庁舎屋上から南側

釜石合同庁舎屋上から東側

壁に貼られたメモ(1)

壁に貼られたメモ(2)

■3月20日(日) 曇り、微風

 翌20日も朝8時に来て衛星回線の設定、テレビ会議をセットして準備していたがあまり使われてないようであった。この日は日曜日でここ合同庁舎も職員はお休みのようであった。
 筑波からは釜石合同庁舎のみならず釜石市役所の方にも回線を使ってもらえとの指示が出され、さっそく県の方に相談したが、担当者についてはよく分からないとのことであった。 やむなくマネージャと2人で釜石市役所まで行くことにした。我々がいる合同庁舎は海岸から1kmほど内陸にあり天井が一部崩落しているもののビル自体津波の被害を受けておらず電気も水も問題ない。 しかし、釜石市役所は報道でもあったように役所の建物自体が津波に呑み込まれ大破しており、釜石駅前のシーサイドというところに仮設しているとのことであった。 そのシーサイドに行くとその1階は避難者名簿や掲示板がところ狭く張り出されていたり、安否を調べる人達や援助物資配給などでごった返ししている。 役所の方は2階で仕事しているようなので、2階に上がるとそれこそカフェテリアの小さいテーブルで打合せしていたり、部署を示す標識もなく大勢の人でひしめき合っている。 誰がどの部署とか何をする人なのかもさっぱりわからず、また皆さん忙しそうにしている。 このような状況でとてもJAXAから来たものでインターネット出来ます、テレビ会議できます、と言っても話に乗ってもらえるような雰囲気はなかった。
 シーサイドから引き揚げ、車で釜石駅から津波が来た海側の被災地域に様子を見に行くこととにした。 JR釜石駅前まで津波が押し寄せたようで、泥の跡がそこそこに見られたがさらに海岸に近付けば近づくほど道の両側は瓦礫が積み上げられまさしく悲惨な状況であった。 このような状況ではさぞ釜石市役所も大混乱していることが容易に想像でき、我々が衛星回線を提供しますと訴えても仕方がないので早々に合同庁舎に引き上げた。
 このような災害では通信は非常に重要なインフラであるが、今一番必要としているのは携帯電話で、いつまでたってもなかなかつながらないことが切実な問題ということを実感する。
 また県の主査から、今日大船渡に調査に出かけている人がおり、その人がここに立ち寄った際に県本部と連絡するので、その時にテレビ会議セットを使ってみるという話であったが、結局その方は現れなかった。 衛星携帯電話を持って現地に行っているそうである。今日はそれでおしまい、6時過ぎに現場を片づけ宿に戻った。

■3月21日(月) 曇り、微風

 21日も朝8時過ぎに合同庁舎につき、いつものように準備していたが県本部とテレビ会議をする様子もなくひたすら待機であった。 月曜日になると近くの弁当屋が開店し、お昼は暖かい弁当にありつくことが出来た。隣にいる自衛隊員達は相変わらずカーキー色の缶飯であった。 局長室のテレビ回線だけでなく合同庁舎1階ロビーで無線LANが使えないか試してみることとし、設定したところ使えることが分かったので局長室に設置しているPC4台のうち、 1台をロビーに移しインターネットを一般の方にも使えるようにした。
 合同庁舎の1階ロビーは中央に机が並べていてその上に各避難場所の避難者名簿が置かれている。 またロビーの壁の掲示板には避難所や診療所の状況、役所からのお知らせなど張り出されていて、 時折住民の方がそれらを見に来ている。ここに来た当初はそれこそごった返ししていたが、だんだん少なくなってきた。 1階ロビーの一角に説明文とともにPCを1台置かせていただいた。そのPCからはインターネットで避難者名簿をはじめ必要な情報が検索できるようになっている。 ただここに置かれている名簿を閲覧される方は年配者が多く、果たしてインターネットで検索される方が現れるか気になったが、案の定、その日はそのPCを使う人は現れなかった。
 また合同庁舎の4階会議室に大阪から駆け付けた警察や消防隊員が40名ほど来るということで、この日はその準備が淡々と進められていた。


壁に貼られたメモ

釜石合同庁舎1階ロビー

■3月22日(水) 曇り、微風

 22日は我々第1陣の最終日ということで、いつもより幾分早く合同庁舎に行き準備していると、愛媛県から来た保健士の方がどこから聞きつけたのかインターネットを使いたいとの申し出があったので、さっそく操作方法などを説明した。 11時頃になって我々の交代要員が来たのでロビーに降りてみると今度は中年と思しきおじさんがPCを操作されていた。 携帯電話と違って我々のPCは衛星回線で提供されているので通信は安定している。このことを強くアピールし、ここのインターネット回線を皆さんに使っていただくようになることを期待した。
 インターネット回線も含めもろもろのことを第2陣へ引き継ぎ、また破損した可搬型VSAT設備の積み込みなどして結局釜石を出たのが12:00過ぎにであった。 盛岡に向かう途中車の窓から外を見ると、のどかな田園風景が広がっていて春の気配を感じた。

◆最後に◆

 震災から1週間ほど経ってから現地入りしたのであるが、岩手県庁の方々のご厚意により通信衛星回線を提供することが出来た。 もっとも国が打ち上げた通信衛星で本来研究開発が目的とはいえ、このような大災害にこそ役立てることができなければ何のための衛星通信かということになる。 震災直後、多くの携帯電話基地局が被災し基幹通信設備も被害を受けた中、商用に供されてている通信衛星の回線容量はかなり逼迫していた。 衛星回線についていえば、マスコミなどがテレビ伝送に利用することで多くの帯域を使ってしまうことで逼迫する。 また地上の光ファイバー回線も被害を受けていて普及するまで時間を要していた。 こういう状況で、例え実験用通信衛星といえども被災地と災害本部とを結ぶ安定した通信回線を提供することはとても有意義なことである。 ただ、我々はこの実験衛星を打ち上げてからは技術開発の通信実験しか行っていなかったので、実際に災害本部間の通信とかに適用するためには多くの調整が必要である。 今回はとにかく岩手県庁と釜石の合同庁舎との間の通信回線を提供したが、我々がいる間は県庁の方や釜石合同庁舎の方に対して有効な利用方法まで十分考えていなかった面がある。 我々が現地を離れ第2陣に引き継いでからは、実際に岩手県庁と釜石合同庁舎間では毎朝岩手県庁で行われている定例会議をテレビ回線を通じて合同庁舎に配信し利用されたとのことであった。 特にハイビジョンテレビ回線によるビデオ会議だとお互いの意思疎通の点で大いに改善されるものと思う。 また釜石合同庁舎1階に設置したPCによるインターネットも利用者も増えていったと伺った。
 阪神淡路大震災の時もそうであったが、まずは電話が通じないことが一番の問題で、とにかく固定電話や携帯電話を通じるようにすることがまずは最初である。 通信会社は全力を挙げて社有の衛星通信設備を持ち込んで携帯基地局など復旧に努力しているし、また自衛隊や消防など独自の通信設備を持ってきて非常用の通信を確保している。 一方、我々の設備はハイビジョンテレビ伝送が可能でアンテナも小型ということでは技術的に素晴らしいが、所詮開発品でありとても素人には扱えない。 災害現場は自衛隊や消防署からの援助の方が来てごったがえししている状況で、支援に入るならそれこそ自前ですべて用意することが必須であると感じた。 今回我々は、通信設備のみならず自家発、予備のガソリンまで用意するなど周到な準備をして現地に出向いたが、これら準備に携わった方々に感謝している。
 超高速インターネット衛星として、残念ながらHDTVによるテレビ会議セットが実際に利用する場面を自分の目で確認することは出来なかったが、 インターネットPCが利用されるようになったことは嬉しかった。今後災害時における衛星回線をどう役立てるか貴重な経験であった。
 最後に岩手県庁の方や釜石合同庁舎の方には大変お世話になった。また我々が作業している側で24時間交代で勤務していた海上自衛隊を始め、災害現場で働く多くの警察や消防、自治体の方々を真近くに見て、ほんとに頭が下がる。 未曽有の大災害で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方、また被災地の一日も早い復興を願う。


自衛隊の衛星通信車両

NTTの衛星通信車両

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