北京探訪

■2012年3月21日

仕事で北京に行ってきました。
北京は確か4回目になります。最初に北京に行ったのは中米海底ケーブルの会合でした。 その次は中国気象庁での国際会議、3回目は北京オリンピックの時に衛星通信実験で約1週間滞在しておりまして、それ以来の北京です。 最初に行ったときは、やはりまだ自転車が多かったのですが、それから行くたびにりっぱなビルは建ち、道路も広く立派になり、その道路には高級車が行き交う有様です。 まさに経済成長を見せつけられるような勢いの変貌ぶりです。特に北京オリンピックを機に北京の街並みもすっかり変わったような気がします。
さて仕事は早々に終えたのでちょっと市内見学。3年前に開通した地鉄4号線に乗って「円明園」というところに行きました。 ちょっとインターネットで解説をみると、

海淀区の東部にある清朝の離宮の跡。「万園の園」と讃えられる豪華きわまる庭園であったが、 第二次アヘン戦争で英仏連合軍の徹底的な破壊を受け廃墟となった。
約350ヘクタール、周囲10キロの広大な庭園であった。 康煕48年(1709)に康煕帝の第4子胤禎(のちの雍正帝)に下賜され、その後改修と拡張を重ね、付設の長春園・綺春園(のちに万春園と改称)とともに円明三園と総称されるようになった。
建物や庭園は、中国の伝統的な技術を集めるとともに、西洋建築の特色も取り入れている。 円明園の正門を入ると、皇帝が政務を処理する正大光明殿があり、そのそばには江南の名園の名勝を再現した福海がある。 また、四庫全書を収めた文源閣をはじめ、俗に西洋楼というヨーロッパ風の宮殿と庭園も長春園の北部に造営された。
建物や景観だけでなく、書物や書画、文物や宝石を収蔵し、文化・芸術の宝庫であった。 清王朝が150年の歳月をかけ営々と築いてきたものであったが、咸豊10年(1860)に英仏連合軍(第2次アヘン戦争)により、一瞬のうちに廃墟と化した。 現存するのは長春園の西洋楼の残骸のみ。

とあります。 全体の地図は下に示しますが、とにかく広大です。

地鉄の駅からは上の地図で下の方の万春園から入るのですが、門をくぐっていざ中に入ると地図に示されているような池はただただ干上がっており、木々も3月の寒い冬の装いで寒々とした殺伐たる風景でした。 さぞかし完成した時には池に豊富な水をたたえ鯉が泳ぎ蓮の花が咲き誇る漢詩の世界であったと想像します。 そこから円明園の有名な観光地である西洋式庭園のある長春園(上の地図で赤で囲った箇所)に向けてひたすら歩き通しました。
福海は満々と水をたたえまるで海のようでした。それでやっと西洋式庭園につきましたが、そこでもさらに入園料を徴収されました。 さてこの庭園に入ってみると古代西洋文明の遺跡と見まがう石柱や石材が散在しておりました。 中国式庭園の中に立派な西洋式宮殿(西洋楼)が建立されていたことに驚きです。 清代中期以降、多くのヨーロッパ人が献上品とともに中国に文化を伝えられましたが、この西洋楼は乾隆帝時代にイタリア人宣教師カスティリオーネ(朗世寧)が設計し中国の職人を指導して作らせたものとのことである。 復元写真にあるように当時は西洋にも知られた大離宮であったとのことです。
1856年に勃発したアロー戦争(第2次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、 フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、イギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となったとのこと。 いわば一瞬にして英仏連合軍に破壊されたとは驚きです。
乾隆帝は清の勢力を中国史上最大にまで広げ,その範囲は天山北路、南路、チベット、トルキスタン まで及びました。 晩年、英国の使節マッカートニーと接見したことでも知られておりますが、皇帝は、貿易拡大の求めにもけんもほろろで、海路運ばれたプラネタリウム、望遠鏡、機械類などの進物もろくに見ないで、円明園の小屋にしまい込んだとのこと。 また外国との貿易は広州の港を通してしかできなくしたり、日本の江戸幕府の鎖国と同じような施策をしていたんですね。
1820年の時点で、中国の国内総生産(GDP)は世界の3分の1を占めていたそうですが、乾隆帝以降衰退が始まったようです。 ちょうどヨーロッパで産業革命が始まりますが、清朝の没落で欧米や日本に遅れていくことになります。 もし乾隆帝が、西洋の宮殿ではなく、科学技術に興味を示し、産業革命の潮流を取り込んでいたら。中国の歴史、いや世界史は様相を異にしたかもしれませんね。


万春園の入口

長春園

西洋遺跡

昔の館

天壇公園

次に北京で有名な観光地、天壇公園に行きました。故宮には2回行きましたが、この天壇公園は今回初めて訪れました。 そこで今度は平凡社の百科事典で解説をみると、

天壇とは、中国の皇帝が天を祀る儀礼を行う檀。漢代以来、都城の南郊に設けられるのを原則とし、園丘、南郊とも称した。
北京に現存する天壇は、明・清両朝皇帝が祭天の儀を行なったところで、明の1420年(永楽18)に当時の南郊に天地合祀の大祀殿が創建され、 1530年(嘉靖9)、四郊分祀の制に改めて園丘を新築、38年大享殿を新築した。 さらに清の乾隆年間(1736-95)に拡張・整備が行われ、1889年(光緒15)に消失はしたが旧状に従って再建されており、現状はほぼ乾隆当時の状況を伝えている。 祈年殿、皇窮宇、園丘が南北軸線上に並び、その間を専積みの大道で結ぶ。 園丘は皇帝が冬至に天を祀る、白石積み、3成の露壇で、四周を方垣で囲み(天円地方)をかたどり、壇の直径、敷石や欄干の数は陰陽説の陽(奇)で統一されている。 祈年殿は新春に五穀豊穣を祈願する建物で、各層の柱はそれぞれ四季、12月、12時辰、二十四節季を象徴したものである。

という訳でちょっとパワースポット的な場所ですね。 そういえばテレビでやっておりましたが、中国の支配者は広大な領土を収めるために天文を利用したようです。秦の始皇帝は北極星になぞれえて権力を誇示したとか。 それが中華思想の原点だというのです。 いやはややはり中国はスケールが違いますね。それにしても丸い傘が重なったような祈年殿には釘など一切使用していないとのことです。
また冬至に皇帝が天を祀った園丘の真ん中に立つと宇宙の声が聞こえるとのことですが、何も聞こえませんでした。 ただ広大な公園の中の高台ですので、360度の見晴らしもあり、北京の喧騒から遠く静かな雰囲気がありました。


丸い三重の屋根が象徴的な祈年殿

長い廊下で将棋を楽しむ市民

道に水でお習字

北京ダックで有名な全聚徳にて

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