~萩探訪(1)~

■2013年3月3日

萩に行ってきました。
これまで何回か出張で山口に訪れる機会があり、会社内で仕事し2~3日ですぐ帰るだけであったが、今回は約2ヶ月という長期滞在の仕事となったので、山口という街にじっくり向き合った気がする。
あらためて山口といっても山口県というととても漠然としている。 県庁所在地は山口市なのですが、山口県で人口が一番多いのは下関市で、主な産業も宇部や防府など瀬戸内海に面した地域である。 県庁所在地のある山口市はJRの山口駅前も商店街も他の地方都市と同じように寂れた感じ、官庁や学校だけがある静かな町である。
今回は2ヶ月もの長期滞在だったので、とある日曜日にバスで萩に行ってきた。
山口と言えば長州、江戸時代までは中心は萩であり、幕末には数多くの志士を生み出しているのは知られたところである。
吉田松陰の松下村塾から、高杉晋作、伊藤博文など傑出した人物を輩出したばかりではなく、現代の政治の分野でも長州閥の影響を感じさせるところがあるのではないだろうか。
そこで、なぜ萩という街にそういう源があったのか知りたくて、松下村塾や伊藤博文の生家などを見てきた。 それらは質素で田舎の日本家屋そのものであったが、どこにそのような日本の将来を切り開く人物が傑出できたのか、やはりそこは歴史を紐解く以外ない。
司馬遼太郎の「歴史を紀行する」という本の中で、長州のことを「維新の起爆力・長州の遺恨」と名付けて解説されている。 その理由に歴史をさかのぼること関ヶ原の合戦にその根源があると説である。 つまり戦国時代の中国地方は毛利家が広島を中心にその領地は山陽山陰十か国にまたがる大名、というよりもはや覇王にちかい存在であったが、 関ケ原の敗北で一朝にして没落し、徳川幕府によってわずか防長二州(周防・長門)に閉じ込められ、城をおく場所も山陽道は好ましくないとして日本海岸の片田舎に押しやられてしまった。 大名の没落とともにどの家臣も食えぬほどまで家禄を減らされ、上級武士でも山野を耕して自給したり、農民になったものも数知れずという状況だったとのことだ。
「長州の藩士は足を江戸に向けて寝る。」
それが幕末になって300年の怨嗟が討幕の起爆になったとのことである。 それでなぜ長州藩が幕末の頃に豊かな経済力を持ち得たかという点であるが、田畑の開墾に努めたほか、 藩経済を米中心から「長州の三白」と言われた蝋・塩・紙(いずれも専売制)の現金収入を得たことで「商品経済」の味を覚えたことで、 下関を中心に内国貿易で成功した。また海外情報も耳にしていたのではないだろうか。鎖国時代の安泰の中で薩摩藩と同じように幕府の影響を受けず先見性があったものと思う。

司馬遼太郎の本の中で、幕末の萩でも上士と郷士という武家社会の階級が残っていた時代に、吉田松陰や伊藤博文などは郷士の出であったそうで、 藩に残った上士達が昔のままプライドが残っていたことから、あの伊藤博文でさえ上士からの僻みを気にしてか、あまり生まれ故郷に帰りたがらなかったとのこと。
そういえば幕末から明治にかけて数多くの志士や武士が犠牲になったが、司馬遼太郎に言うように明治維新で果実を育てた人・食べた人という見方もできるかもしれない。 また明治政府は旧佐幕派に対しそれこそ徹底した切り捨て、また薩長の人材を登用した藩閥政治は、今度は今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の舞台である会津藩の長州への恨みへと続く。
政治の世界、権力の世界というのは得てして怨嗟が時代を動かしているのかもしれない。


松下村塾

松下村塾の講義部屋

ここから幕末、明治維新で傑出した人物が次々と現れたとのことであるが、何がそうさせたのであろうか。
松陰は25歳のときに伊豆下田でアメリカ艦船に乗り込みを海外渡航を企てたが失敗し投獄され、のち28歳の時に松下村塾を開いた。 松陰がこの塾で若者たちに教えた期間はわずか1年にしか過ぎない。

吉田松陰とはどんな人物であったか、志という精神論のみならず西洋の文化に貪欲まで情熱をもっていたことは、尊王攘夷で揺れている幕末の混乱状況の中で稀有の存在であったのであろう。


伊藤博文の生家

吉田松陰生家跡から見た萩市内

ほんとに昔の日本の小さな家という感じであった。この小さな家から日本の初代内閣総理大臣が育つとは幕末、明治維新という激動の時代を感じさせる。 伊藤博文も松下村塾生の一人であったが、その門下生であった傑出した高杉晋作が倒れ、 幕末の戦いにも参加せず明治維新において長州藩の上士をさしおいて破格の出世をしたせいか、伊藤博文自身あまり故郷に帰らなかったとか。
幕末に西洋の知識を身につけようと国禁を破って英国へ密航留学した。 産業革命を果たした欧州を見た伊藤博文は、明治維新になったとはいえ世界に後れている日本の現実にいち早く気づき、 薩長政治と批判されたとは言え日本のために汗をかいたという功績はやはり大きいと思う。

吉田松陰生家跡は小さな広場という感じであり、その生家は家の土台しか残されていないが、貧しい小さな農家であったことが想像される。
近くには吉田松陰をはじめ松下村塾出身の志士の墓がある。広場の土手から萩市内を見渡すと遠くに毛利家の城があった指月山(143m)が望めた

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