東北旅行
東北を支援するため、松島から釜石へと気ままに車で巡る東北旅行に行ってきました。
行程図
地図データは google map から編集したものです。
■5月27日(月)晴
自宅(6:50) =0:45= 稲城大橋(7:30) =0:45= 羽生PA(8:30,8:45) =1:15= 那須高原PA(10:00,10:30) =1:00= 蔵王PA(11:30) =1:30= 松島海岸IC(13:00)=0:30= 松島センチュリーホテル(13:30))
■5月28日(火)晴のち曇り
松島センチュリーホテル(9:00) =1:30= 南三陸町(10:30,11:30) =1:00= 気仙沼市(12:30) =1:30= 陸前高田(13:00,13:30) =1:00= 大船渡(14:30) =1:00= 釜石(15:30,16:00) =0:30= 宝来館(16:30)
■5月29日(水)曇り時々雨
宝来館(8:30) =0:30= 釜石市内(9:00) =0:30= 道の駅遠野(9:30,9:45)=0:30= 東和IC(10:15) =0:15= 花巻JCT(10:30) =1:00= 平泉前沢PA(11:30,11:45) =2:00= 菅生PA(13:45,14:00) =1:50= 黒磯板室PA(15:50,16:00)=1:00= 蓮田SA(17:00,17:10)=1:00= 東名川崎(18:10) =0:20= 自宅(18:30)
日誌と写真
会社の定年でJTBのクーポン券をいただいたので、家内と二人でどこに行こうかと思案しておりましたが、出向していた当時、東北大震災で被災直後に釜石で通信支援を行ったことから、東北を支援しようということで東北旅行に行ってきました。
目抜き通りには旅館や土産物店、レストランなどが並んでおり、結構海岸線に近いが津波の被害はホテルによれば1階部分が壊滅的にやられたとのことでした。 ただガラスなどは壊れヘドロの被害であったが、建物そのものを破壊するまでには至らなかったようである。
南三陸町に行って驚きました。町がすっかりなくなっているのですね。
鉄骨がむき出しになって赤さびた防災対策庁舎の跡がなぜか原爆ドームを思い起こしました。
ここで最後まで非難を呼びかけていた消防団員たちが犠牲になったと思うと胸が締め付けられます。
またこの周辺も間違いなく住宅がたっていたのでしょうが、今はぺんぺん草が生えている程度です。
見晴らしの良い高台には神社と幼稚園、それにちっちゃな公園がありましたが、
この高台から見下ろす被災地の跡と幼稚園で園児たちの元気な声と公園でゲートボールに興じる老人達をみていると奇妙なギャップを感じましたが、
震災から2年もたって新しい息吹も感じさせられました。
また町のはずれに「さんさん商店街」と呼ばれる仮設の商店街があります。
ここのお茶屋さんでソフトクリームを食べたのですが、元は老舗のお茶屋さんだったようで、震災の時はそれこそ着の身着のまま逃げたとのことです。
陸前高田は南三陸町と比べてもっとひどいです。本当に見渡す限り荒野という感じで、これでは津波が来ても逃げ場所がないという地形です。
奇跡の一本松は工事中でしたが、震災前はさぞかし松並木が美しい海岸であったことと想像します。
それが工事現場のような風景で国道45号線はダンプがひっきりなしに通っておりました。
このような広大な荒れ地をどう復興していくのでしょうか。一面の広い土地はあるのですが、
ここに住居を構える訳にもいかないと思いますし、素人目にもとても困難な事業と思わざるを得ません。
国道45号線をさらに北上して釜石に来ました。ここは震災当時合同庁舎で衛星通信実験をやっていたところです。
今回の旅行の目的として、震災時に訪れた釜石がどのようになっているのか確認したいということもありました。
合同庁舎の屋上に衛星アンテナを設置して釜石と盛岡県庁を結び、またインターネットも利用できるようにしました。
震災の6日後に釜石に来ましたが、合同庁舎はいろんな人でごったがえししておりました。
その中でも1階のロビーで避難者名簿を食い入るように見つめている人たちの姿がいまだに目に焼き付いております。
こちらは屋上に続く階段の踊り場で通信機器のお守りをしておりました。
そこでは自衛隊(通信隊)の方も24時間交代勤務をしており、それこそ毛布と缶飯で階段で寝泊まりしておりました。
こちらは県庁の紹介で遠野の宿をあてがってもらい、毎日45分かけて通勤しておりましたが。。。
そのうち大阪の消防署の方も20名くらいやってきて、大きな会議室を占領して寝泊まりしておりました。
合同庁舎は海岸からだいぶ離れておりますので、津波の被害はないですが、講堂の天井は地震で崩れ落ちておりました。
この釜石滞在中、しょっちゅう地震がきて震度3程度は慣れっこになっておりました。
ここから津波の被害のあった場所にもちょっと行ってみたのですが、道はがれきが一杯、車がやっと通れる程度で、船が店の軒先まで押し上げられている、
またヘドロが津波の痕跡をはっきりと残しておりました。
釜石市役所が津波で被害を受けていたため、仮設の市役所が釜石駅近くのシープラザで業務を行っておりましたが、それこそ人々でごったがえししており、まさしく混沌という状況でした。
釜石市役所の裏手の高台ですが、ここは震災当時、ここからみた光景はテレビでもよく放映されておりましたが、それこそ阿鼻叫喚の世界でしたね。
子供の泣き叫ぶ声が耳に残ります。ここから市内を見渡すと左手の谷あいに仮設住宅がひしめいて立っておりました。
また津波で流されたであろう市内には新しい家がぼちぼちと立っておりました。
南三陸や陸前高田と違ってここは避難する高台が傍にあるので、やむを得ずに自分の土地に家を再建したのでしょうか。
津波とともに暮らす、という覚悟なんでしょう。
釜石から30分ほどの大槌町で、おかみさんが有名は「宝来館」に宿泊しました。
ちょうどおかみさんともお会いし直接お話ししましたが、明るい方でした。
きっとバイタリニティにあふれた方でしょう。旅館の発展を祈るばかりです。
感 想
東日本大震災から2年経ちましたが、今回初めて南三陸町や陸前高田を訪れてみて、それこそ街全体がなくなっている風景を見るにつけ、改めて震災の凄さを感じました。
造成地のような殺風景の景色ですが、ぺんぺん草の生えた土地には家の土台が残っており、
震災までここで家族が暮らしていたこと、津波でそれをすべて失ってしまったんだということをひしひし感じさせます。
ダークツーリズムという言葉を聞いたことがありますか。インターネットで検索すると次のような説明があります。
戦跡は、観光地の一つである。関ヶ原や川中島は古戦場として様々な作品に登場し、 ワーテルローやソンム、ガリポリなど近代戦争の激戦地は 19 世紀から海外旅行の一部に組み込まれてきた。 戦跡への観光は、かつては、死の観光(thanatourism)や戦場観光(battlefi eld tourism)と呼ばれていたが、 レノンとフォリー(John Lennon and Malcolm Foley, 2000)がダーク・ツーリズム(dark tourism)という言葉を用いてから、戦跡を含む「負の遺産」と呼ばれる場所への観光は、この言葉が用いられるようになってきた。
人類の歴史の暗い部分、その跡を辿る旅のことを指すんですね。日本で代表的なのは「原爆ドーム」などでしょうか。 それで今回の旅行はダークツーリズムか?っていうとそうかも知れませんが、行く前はちょっと「野次馬」的になるのではっていう気持ちも抱きましたが、 現地に行ってみて改めて災害の凄さを身に染みて感じまして、「野次馬」どころではありませんでした。 やはり東京でテレビで見ているだけでは現実として捉えられないですね。 被災した人の話を聞く、またここでどういうことが起こったのか現地で想像してみる、ということで、なぜか自分に問いかけを抱かせます。 素直に東北で被災した人達への少しでも力になれれば、という思いを感じた旅でした。