萩探訪(2)

2014年4月20日

昨年に続き萩に行ってきました。
今回も山口出張でたまたま仕事の関係で土日を挟んでいたので、日曜日にバスで萩に行ってきた。
昨年は吉田松陰の松下村塾や伊藤博文の生家などどちらかというと市内から外れた場所であったが、今回は萩市内を散策してみた。
萩バスセンターを降りたところは相変わらず人気の少ない地方都市をいったところ、商店街も朝9時半頃というせいもあるかもしれないが、アーケード通りには誰一人歩いていなかった。 それに小雨を降っていて少々寒いくらい。 これじゃホテルで寝ていた方がよかったかな、との思いもふと湧きおこったが、とにかく観光案内地図に沿って城下町方面に歩いてみた。
ほどなく白い土塀が続く通りに出くわし、塀の中はというと裁判所とかの看板が見える。 きれいな白い土塀がずっと続くので、それに沿って歩いていくと大通りに出て明倫館の立派な正門に行きついた。 塀の中は大きな木造の建物があり、小学校になっていて、運動場の向こう側には真新しい校舎も見える。 明倫館は江戸時代における有名な藩校であり、毛利藩は学術に力を注いでいたことがわかる。 明倫館は元々お城の傍にあったが、そこには単に小さな碑が建っているだけであった。


明倫館正門

明倫小学校の土塀

そこからほどなく閑静な住宅街の中に木戸孝充旧宅があり中に入る。 木戸孝充(桂小五郎)は維新の三傑と言われている。司馬遼太郎の「翔ぶが如く」では、 明治維新が誕生した後のいわゆる薩長による藩閥政治の様子から西郷隆盛の西南の役までの時代が描かれている。 幕末の混乱から明治維新になって明治になり日本の近代化が一気に進んだように思っていたが、なかなか明治初期も幕末の混沌にも劣らぬぐらい緊張した時代であったことがよく分かる。
その中で、木戸孝充は維新の2大派閥である長州の代表であった。 明治初期に生じた「征韓論」で西郷を意見をことにするが、木戸孝充はもともと薩摩藩を信用していなかった。 一方、薩摩藩は「征韓論」が出た時、西郷隆盛、桐野利秋と大久保利通と川路利良とが真っ二つに意見が分かれてしまうこととなるが、そこは西欧に留学した経験の差が表れている。 明治維新を成し遂げた志士達だが、本当の日本の置かれた立場を理解する者と、やはり武家社会から延々と続く士族意識をなかなか捨てきれない者との差であろう。 その中で木戸孝充は留学の経験から「征韓論」に反対、西郷や桐野を嫌って日本の近代化を大久保に通じて訴えるも西南の役が終わる直前の明治10年5月、45歳の若さで死してしまう。 その西郷、桐野が西南の役で敗れ自害し、一方の大久保もその翌年明治11年5月に暗殺され、川路も明治12年10月、病死してしまう。
木戸の死後、伊藤博文が明治という時代を支えていくことになるが、司馬遼太郎によれば、こんな風に書いている。

伊藤博文にとって、木戸孝充は徹頭徹尾恩人というほかはない。
長州におけるかれの生い立ちは卑賤で、とても他藩へ行けば長州藩士とはいえない身分であった。 幕末、木戸が書生時代の博文を自分の被保護者(長州藩の用語でいえば「哺」)ということにして藩に届け出たがために無禄ながら長州藩士を称することができ、藩の内外で活動してその存在を知られるようになった。 木戸は伊藤を「哺」にした当時も、「これは形式であって、こうなったからといって君と私に上下関係が出来た訳ではない。 君と私は友人であり、同志である。」、と入念に平等であることを言っている。 木戸のこの平等意識は、身分関係をやかましかった江戸期にあっては、類まれなものといっていい。
このような時代背景を考えるに、旧宅の居間に飾ってあった肖像写真をあらためて眺める。


木戸孝允生家

木戸孝允肖像画

高杉晋作宅(現在は個人宅)

古地図(大名屋敷)

高杉晋作、いわずとしれた尊王攘夷の志士として「奇兵隊」を組織した人物として記憶に残る。
そこでちょっと調べてみたら、高杉は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、 阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された、とある。 よって、騎兵隊での高杉の経験は少ない。
京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、高杉は脱藩して京都へ潜伏する。 桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。 7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害する。
8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。時に高杉晋作、24歳であった。 交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。 高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した。 これは清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、 もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。
その後、晋作自身は、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、慶応3年4月14日(1867年5月17日)、 江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去る。(享年27)
ただこの家は現在個人の持ち家となっているらしいので、中には入らなかった。
古地図に示されている通り、旧大名屋敷は区画がそのまま残っているので、江戸時代の大名屋敷の広大さを感じさせる。 ただ大きな屋敷が残っているのはわずかで、中学校や高校、博物館、青年の家などに代わっていたり、中には塀の中にいくつかのアパートがあったりして、時代の流れを感じさせる。 それにしてもまっすぐな通りとマンションみたいな高い建物もなくすっきりしている。 後で気づいたが、電柱がないとこう景観も昔の風情がそのまま残されているな、と感じる次第である。


旧大名屋敷の通り

旧大名屋敷の白い土塀

萩城址(指月公園)

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

萩城、昔は指月山の麓に堂々と姿を見せていたことであろう。
関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は萩に移封され、慶長9年(1604年)に萩城を築城する。 足かけ4年を歳月をかけて完成し、以来幕末までの約260年間毛利藩の拠点となった。 毛利家では交易の奨励、運河の開発など行い萩は独自に発展してきたが、文久3年(1863年)に毛利氏が萩から山口に移ってから、多くの屋敷が主を失い一帯も寂れていった。


きれいな水の流れの藍場川

大きな鯉が泳ぐ

桂太郎旧宅。萩の武家屋敷で綺麗な藍場川沿いの旧湯川家屋敷のとなりにある。
拓殖大学の創始者である桂太郎、幕末期には討幕運動に参加、のちに政治家として頭角を顕し3回にわたって内閣総理大臣を務めた。
ここは生家でなく総理大臣になった時に少年時代を過ごした故郷にいわば別宅ということで建てたそうで、玄関、台所に続き6畳と4畳半というこじんまりした日本家屋である。 縁側に座って藍場川から引き込んだ小さな川を配した日本庭園(水琴窟がある。)を眺めると本当に落ち着く。 ただ桂太郎自身この家に訪れたのはほんの数回、この別宅を建てて4年後の数え66歳で病死と、説明員のおばさんから聞いた。
ここに座ってさらにおばさんから桂太郎や萩のことなどいろいろ教えてもらう。
田中義一旧宅にも行ったことを話すと、田中義一も桂太郎と同じ町内ということで、同じ町内会から2人も首相が出たというのは日本広しといえどもちょっとないんじゃないですか、とのこと。 司馬遼太郎の本を読んでその事実を確かめたく萩に来たことをおばさんに話すと「司馬遼太郎は長州人が嫌いなんでよく書いてくれてないのよ。」との返事であった。 長州人は議論好きと司馬遼太郎が書いていますが、と言うとそれには納得、議論好きなので長州から何人もの傑出した政治家が出てきたということだろうと思う。 おばさんによれば歴代総理もそうだが、保守本流の地かと思えば共産党の野坂参三氏も萩出身だとか、 また現在の安倍総理が松陰神社を訪問したとか、あの民主党の菅元総理も高校までは宇部だったとか、やはり山口、いや長州は政治の臭いがする地域である。 私から長州閥というのがあって戦前、戦後を通じて脈々と続いているのではないのでしょうか、との意見にうなづいておられました。
「昔からここはこのように静かなんですよ。」という言葉に縁側で優しい春の光を浴びてとても優雅な午後の時間を過ごさせていただいた。 桂太郎も隠居してゆっくりここで余生を過ごしたかったに違いない。


藍場川沿いの桂太郎旧宅正門

4畳半の間から日本庭園を望む

昨年は団体の観光客が押しかける松下村塾のあたりを回ったが、今回は萩市内を巡ってみて、その他旧田中邸(田中義一)や山県有朋生誕地、 久坂玄瑞旧宅跡などを見て回ったが、改めて萩の町の歴史の重さというのが分かった。
毛利藩の城下町として栄えた小さな町であるが、太平洋戦争でも爆撃に会わず、また国鉄の線路もわざと市街を避けて通すなど、江戸時代からの街並み、というかその区画が残されていて、昔の武家社会を想像することが出来た。
来年のNHK大河ドラマは「花燃ゆ」とかで吉田松陰の娘の話とか。 静かな萩の街であるが観光客で活気を取り戻してもらいたいと思う。

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