薬師寺
長らくすきま風が吹いていた境内に、昭利の終わりから平成にかけて豪華絢爛な堂塔が建った。蘇った伽載に入ると、白鳳美術そのままの艶やかな柑界に引きずりこまれる。
歴史を刻み、「凍れる音楽」と評されたモノトーンの東塔と、朱色と金色が煌びやかな西塔との間には、千三百年という時間が流れている。
しかし、西塔を建てた昭和の名棟簗は、千年後の木の縮み具合も考虚して設計していたという。清らかな心をもって美しい世界をつくる、という天武天皇の遺志が、今も伽藍に息づいている。
五木寛之の百寺巡礼「薬師寺」より
2025年3月12日
薬師寺、NHKで「プロジェクトX」という番組があるが、昨年そのなかで薬師寺修復とその事業に携わる宮大工を取り上げていた。平成の大修理ということで、薬師寺の東塔をすべて解体修理するというもので、平成21年から始まり12年の歳月を経て令和3年2月に竣工したという。
薬師寺は子供の頃に行ったはずであるが全く記憶にない。また薬師寺の高田好胤という住職の法話が面白いということが有名であったことぐらいしか知識はない。ただ薬師寺の素晴らしさなどについて中学校の美術の先生がしきりと説明されていたことをうろ覚えながら記憶している。歳をとるとこのような古い建物や歴史に興味が湧いてきて、まして世界遺産である薬師寺東塔の大修理が終わったということもあって行ってみたくなった。
番組の中では宮大工の苦悩、はたまた昔の大工の技巧や知恵について新たな発見をしたことなどが紹介されていた。ということで、実際に実物を見てその素晴らしさを感じてみたいと思った。
広い駐車場から休ヶ岡八満宮を経て南門から境内に入る。境内に入ると西塔、東塔が両側に控えその真ん中に金堂が控えている。
広い駐車場から休ヶ岡八満宮を経て南門から境内に入る。
歴史白鳳時代の栄華が蘇った法相宗の大本山
天武九(680)年、天武天皇は皇后の病気回復を願い、薬師如来を本尊とする寺院建立を発願した。
伽藍の造営は当時の都であった藤原京(現在の奈良県橿原市ではじまった。しかし、その途中で皇后は回復し、逆に天武天皇が病で亡くなってしまう。皇后は夫の跡を継いで持統天皇となり、伽藍の造営を続行。文武二(698)年頃にようやく完成した。
天武・持統両天皇の夫婦愛から生まれた薬師寺だが、完成後は波乱の歴史を歩む。
まず平城京への遷都にともない、現在の地へ移転する。創建時の伽藍は本薬師寺と呼ばれ、今では礎石が残るだけだ。
移転後は、度重なる火災や資金難で伽藍は衰退するばかり。追い打ちをかけるように享禄元(1528)年の兵火で、東塔と東院堂を残して伽藍の大半は焼失してしまった。
五木寛之の百寺巡礼「薬師寺」より
西塔に比べて東塔は古びた姿のままである。番組であったように解体した部材をそのまま残し、再度補修し組み立てたということで、古びた木造建築そのもので鄙びた感じがでていて、それは美しい。
薬師寺 東塔
今回実際に来てみて初めて知ったが、西塔が色鮮やかになっているのに違和感を感じたが、そもそも現在の西塔が建てられたのは昭和の末期である。それも400年以上も西塔はなかったのである。その再建には高田好胤の努力があった。
堂塔を蘇らせた高田好胤師
薬師寺は江戸時代に入っても一向に復興の兆しをみせず、伽藍は寂しい状態が長らく続いた。本尊の薬師三尊像も、雨漏りのする仮金堂に四百年以上も置かれていた。
転機は昭和四十二(1967)年に訪れた。修学旅行生へのユニークな説法で知られた高田奸胤師(1924~98)が管主に就任し、長年の悲頻であった金堂の復興を発願したのだ。
計画を知った企業から寄進を申し出もあったが、高田師はそれを固辞。百万巻の写経を集め、その納経料でまかなうことにした。
天武天皇の志を重んじた高田師の計画を、多くの人は無謀だと嘲笑った。。しかし熱心な活動により、写経は無事に百万巻を達成。昭和五十一(1976)年には金堂が復興し、盛大な落慶法要が営なわれた。
高田師は、さらに白鳳伽藍の復興を目指した。
昭和五十六(1981)年には総檜造りで西塔を再建。ついに東西両塔が並んだ。そして中門と廻廊が相次いで完成。師亡き後もさらに事業は続けられ、平成十五(2003)年、大講堂が世界最大級の木造建築として蘇った。
五木寛之の百寺巡礼「薬師寺」より
東塔 頂上で飛 ひ々が舞い「凍れる音楽」とも評される二重塔
塔を火災から守るために飾られた水煙
昭和五十年代以降に次々と復興を遂げた建築物の中に、ポツンと古めかしい塔が佇む。薬師寺で唯一、創建当時の姿を残す東塔だ。
天平二 (730)年築とされるが、建築様式はそれ以前の白鳳時代のものだ。そのため、藤原京の本薬師寺から移築したものという説もある。
総高は三四メートル。三重塔だが各層の下に裳階と呼ばれる庇があり、六重塔に見える。その交互する大小の屋根が、この塔に生き生きとしたリズムを与えている。明治時代、奈良で文化財調査を行った束洋美術史家のアーネスト・F・フェノロサ (1853~1908)は、その姿を 「凍れる音楽」と評した。
頂部に飾られた水煙もまた、躍動感にあふれている。他の寺ではよく火烙や雲の透かし彫りが見られるが、東塔のものは四枚の銅板それぞれに、表裏六体の飛天があしらわれている。
上と中央の飛天は祈りを捧げたり、あるいは散華しながら空を舞い、下の飛天がそれに合わせるかのように笛で音色を奏でている。
東僧房では水煙の原寸大模型を見ることができるが、できれば双限鏡やオペラグラスで実物を鑑賞したい。雲とともに衣をなびかせ、千三百年前と変わらぬリズムで舞う飛天たちは、ここでしか見ることができない。
白鳳伽藍"竜宮"にたとえられた千三百年前の姿が蘇る
昭和四十年代までの薬師寺は東塔のみが創建当時の姿を残し、広大な境内は寂莫としていた。
しかし、昭和五十年代から相次いで堂塔が復興し、今は竜宮造りと呼ばれた創建当時の姿を見ることができる。
その礎を築いたのが故・高田好胤師だ。檀家を持たない薬師寺は資金を善意の寄付に頼るしかない。このため高田師が考えだしたのが「写経勧進による復興」だった。
昭和五十一(1976)年の金堂に続き、同五十六 (1981)年には西塔が復興。四百五十年ぶりに東西両塔が並び立った。同五十九 (1984)年には中門、平成三 (1991)年には白鳳伽藍の北に、新たな玄共三蔵院伽藍も完成している。
高田師は平成十年に亡くなるが、写経が七百万巻を超えた平成十五年、世界最大級の木造建築・大講堂が落慶。
現在の白鳳伽藍は復興事業にかける情熱と多くの人びとによる写経勧進の結晶なのである。
はじめてここに足を踏み入れた人は、世界遺産という肩書きから抱くイメージと、真新しさとのギャツプに戸惑うかもしれない。しかし、現在の姿こそが創建当時の楽師寺の姿なのである。
仏像は金色に輝き、緑や朱に塗られた伽藍が翼を広げるように美しく、整然と佇んで件んでいた。その当時を偲んでいただきたい。
千年先を見据えた ″ 最後の宮大工″
高田好胤師とともに白鳳伽藍復興に半生を捧げたのが法隆寺の宮大工だった西岡常一棟梁 (1908~95)である。豊富な知識と経験を誇る西岡棟梁に、高田師は夢を託した。
西岡棟梁は復興にあたり、当時を再現するだけではなく、千年先に残ることを目指した。そのため槍飽や手斧といった、創建当時に使われていた鋭利な工具を再現。また、遠く台湾まで樹齢千年を超すヒノキを探し求める一方、鍛冷職人には千年錆びない和釘づくりを依頼した。
法隆寺の伽藍は、千年以上も昔の姿を今も保っている。幼い頃から修復に携わり、その理由を知り尽くした西岡棟梁にとって白鳳時代の工法こそ千年先を保証できる唯一の方法だったのだ。
実は金堂再建の際、西岡棟梁は火災を懸念して木造建築を認めない行政側と対立した。妥協案として仏像の周辺のみ鉄筋コンクリートを用いたが、棟梁は 「木は千年もつが、コンクリートは三百年しかもたない」と強く主張したという。
西岡棟梁は耐久性だけでなく、見た日の変化にも気を配った。たとえば東塔の屋根は、西塔に比べると傾斜がきつい。年月とともに自らの重みで軒が下がってしまったのだ。
そこで西外の犀根が千年後に東塔と揃うよう、軒先を創建当時の位置からさらに三〇センチ高くした。東塔を模した以上、東塔より頑丈にはならない。そのため軒先もより下がると計算したのだ。
また、東塔に比べて基壇を八〇センチ高く、柱を三三センチ長くした。千年後、塔は自らの重みでその程度は沈み、木も縮むと予測したという。
西岡棟梁も高田師と同じく志半ばでこの世を去ったが、その技と心は現場で働く弟子たちにしっかりと受け継がれた。白鳳伽藍はまさに "最後の宮大工"による一世一代の人仕事だった。
高僧・玄奘三蔵が静かに眠る
最近、薬師寺は修学旅行の観光スポットという印象が強い。今も若い僧たちがユーモアたっぷりな説法を行い、中高生たちを楽しませている。
しかし本来は、同じ奈良市内にある興福寺と並ぶ法相宗の大本山である。「西遊記」の三蔵法師のモデル・玄奘三蔵が始租とし、昭和五十六年にはその遺骨が分骨された。
また平成十二年(2000)年には、平山郁夫画伯が三十年がかりで玄奘三蔵の旅を描いた「大唐西域壁画」が完成。春と秋に公開され、新たな見どころとして人気を集めている。
薬師三尊像 奈良がンルクロードの終着点であることを静かに物語る
金堂に安置された薬師寺の本尊は、薬師如来坐像を中央に、向かって右に日光菩薩立像、左に月光菩薩立像を従えた三尊像だ。
本来は銅の上に彼金が施され、金色に輝いていたという。ところが享禄元 (1528)年の兵火で焼け焦げ、現在のような姿に変色してしまった。しかし黒光りする姿が、三尊に威厳と存在感を与えている。
薬師如来は医王如来ともいい、心身の病を癒す仏として、白鳳時代につくられるようになった。とくにこの薬師如来は母性的な表情をたたえ、多くの人びとの信仰を集めたという。
日光・月光の両書薩立像は、薄い衣に見事に整った肉体が包まれ、それを誇示するかのように体をひねった姿が印象的だ。頭部と上半身、下半身をS字( もしくは逆S学)にくねらせるのは三曲法と呼ばれ、身体の線を強調するためにインドで編みだされた様式である。
薬師如来が座る銅製の台座も国際色豊かな白鳳文化を伝えている。形状が 「宣」という字に似ていることから宣字座とも呼ばれている。
その台座の側面にはギリシャの葡萄唐草文様、ペルシャの蓮華模様、インドから伝わった力神の裸像があしらわれている。さらに中国の四方四神も描かれ、薬師如来に劣らぬ存在感がある。国境を越えた図柄は、奈良がシルクロードの終着点であることを感じさせる。
仏足石 天平時代の仏足石信仰を伝える巨岩
インドでは仏像がつくられるまで、釈迦の足の裏を石に彫りこんだ仏足石が信仰の対象だった。日本でも入世紀の天平時代、同じように釈迦の足跡を崇める習慣があったという。
薬師寺にはそうした仏足石信仰を示す、日本最古の仏足石が残されている。銘文によると、インドの鹿野苑にあった仏足跡を、唐の王玄策が模写。遣唐使の一人がさらに書き写し、日本に持ち帰った。そして天平勝宝五 (753)年、夫人の死を悼んだ天武天皇の孫・文室真人智努の命によって、石に刻まれたとされる。
石は六面体の上面に仏足跡、周囲の四面に銘文が彫られている。足跡には月や魚、ほら貝など、瑞祥文七相といわれる八つの絵柄が見える。これは仏を帝王にたとえ、統治に必要な宝物を描くことで、その偉大さを表現しているという。
聖観世音菩薩立像 美しいプロポーションを誇る白鳳時代の傑作
伽藍の東南にある束院堂は、養老年間 (717~724)に吉備内親王が元明天皇を供養するために建てた堂宇。その後、焼失、再建、修理をへて今にいたる。
その本尊とされるのが聖観世音だ。まっすぐ背筋を伸ばし、流れるような薄い衣の下には、くびれた腰と細い脚が透けて見える。日本屈指の美しい観音像といわれ、清楚ななかにも色気が感じられる。
玄奘三蔵院・大唐西域壁画 遥かな旅路を壮大なスケールで描いた
玄奘三蔵の遺徳をたたえるために造営された玄奘三蔵院伽藍。その回廊の奥、壁画殿には、平成十二(2000)年の大晦日に奉納された、平山郁夫画伯の大作 「大唐西域壁画」が納められている。
壁画は七場面・十三枚からなり、玄奘三蔵が長安からナーランダヘ十七年かけて旅した様子を表している。構想から完成まで三十年以上。高さは二・二メートル、横は実に四九メートルにも及ぶ。
その中央を飾る壁画殿の本尊が、ヒマラヤを描いた 「 西方浄土 須弥山」の三枚。須弥山とは仏教の世界衝に登場する聖なる山で、世界の中央にそびえているとされる。幾重にも塗り重ねられた山肌の上に、白く輝く雪、そして澄みきった青空。見る者を玄笑三蔵の旅に引き込む、神秘的で力強い作品だ。
壁画殿の公開日は年によって異なるが通常は春期・秋期の年二回。
修二会花会式 大和に春の到来を告げる雅やかな行事
例年三月三十日から四月五日の間、盛大に行われる薬師寺の伝統行事。
嘉承二 (1107)年、堀河天皇が病に臥した皇后の快癒を薬師如来に祈願すると見事に回復された。皇后は感謝の気持ちを込め、修二会に梅や桃、桜など十種の和紙の造花を供えた。それがはじまりだ。
薬師三尊像を色とりどりの造花が取り囲み、金堂内には仏を讃える僧侶の声が響き渡る。さらに伽藍では舞楽や能楽が奉納され、幻想的な雰囲気になる。